聖書 使徒言行録2章1~21節、コリントの信徒への手紙一・12章1~11節
聖霊降臨祭
ペンテコステ(聖霊降臨日)おめでとうございます。先週の金曜日にはこの教会で千葉支区の催し「教会婦人の集い・ちば」が開催されて大勢の人が集まりました。「キリストにある平和を共に追い求めよう」という主題で礼拝と講演がおこなわれました。松戸教会牧師の村上恵理也先生の説教は力の均衡による即席の平和ではなく、キリストの平和を求めていきましょう、平和を実現するには時間がかかるけれど忍耐強く進めることでまことの平和が実現します、ということをご自分の教会のことや子供時代のエピソードを交えてお話しくださいました。そして南支区にある目黒原町教会の大塚啓子(ひろこ)牧師はローマの信徒への手紙から平和について講演してくださいました。
私はこの礼拝堂に一杯の人がいるのを見て、多くの人がこのように集まって御言葉を聞き、神さまを賛美できたらいいな、と思いました。準備をしてくださった皆様や手伝ってくださった皆様の働きを、主が喜びその疲れを癒してくださいますように。この集会にも聖霊が働いてくださり、参加者に大きな恵みが与えられました。参加した人たちはそれぞれの教会にこの日のことを持ち帰り、分かち合うことだと思います。そのようにしてキリストの平和を作り出す働きが広がることだと思います。
聖霊降臨の出来事
さて、本日与えられた使徒言行録の箇所は2章1節から21節です。先ほどは14節から21節が読まれました。この個所は弟子たちに初めて聖霊が降った時の様子を生き生きと伝えています。イエス様がよみがえられてから50日目、そしてイエス様が天に上げられてお姿が見えなくなってから10日目のことでした。この日は五旬祭と言われていて、当時の過越祭の祭りから足かけ50日目に行われる小麦の収穫祭の日でした。このお祭りはユダヤの人たちにとってはモーセがシナイ山で十戒を授かったことを感謝する日でもありました。町中はお祭りでにぎやかだったことでしょう。
弟子たちはイエス様が約束された聖霊が降ることを熱心に祈っていました。すると突然激しい音が天から聞こえ、炎のような舌が現れて一人ひとりの上にとどまりました。すると一同は聖霊に満たされました。そして聖霊に満たされた人々はいろいろな国の言葉でイエス様を証しするようになりました。
言葉が通じるようになるということは、福音が多くの人々に伝えられるようになるということです。今日聖書は多くの国の言葉に翻訳され、読まれています。よく聖霊降臨はバベルの塔で神が人々の言葉を混乱させたことの回復として知られています。確かにそのとおりですが単に言葉を一つにされたのではありません。言葉を一つにした出来事ではなく、それぞれの言葉で福音が語られるようになった出来事でした。言葉は文化であり生活です。そのような文化や生活を大切にしつつ、福音が広がるようにされたことに神さまの深い御心があるように思います。
預言者ヨエルの言葉は実現した
聖霊が降ると使徒の一人であるペトロは集まっていた人々に話を始めました。それはすべての人に向けた説教でした。「私たちが色々な国の言葉で福音を語っているのは酒に酔っているからではありません。預言者ヨエルを通して神が言われていたことが起きたのです。」パウロの言葉を私の言葉にして語ってみました。預言者ヨエルが活動した時期ははっきりとはしませんが、バビロン捕囚から人々が帰還して神殿が再建された後の頃であろうと考えられています。ヨエルはヨエル書2章28節から3章21節で終末における主の審判と祝福を語りました。その中にペトロが引用した言葉があります。「『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。』という言葉です。「終わりの時」とはイエス様が到来した後の時代のことを指します。この時は教会の時代とも呼ばれまして、私たちが生きているこの時代も終わりの時なのです。その時に神は聖霊をすべての人に注ぐと言われました。ペトロの説教は「その時が今始まった。私たちは聖霊を受けた」というものでした。そして「あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」という預言が実現したのだと宣言したのです。
私たちが考える幻や夢のイメージとは違うものがここでは語られていることに気づかれたと思います。ヨエルの預言にある若者の夢や老人の幻とは「福音」のことなのです。その時には若者も老人も福音を語るようになる、そして今がその時なのだ、とペトロは宣言したのです。
夢や幻が福音であることは聖書に記されている言葉で確認することができます。使徒言行録の中から拾いますと、9章10節のアナニアに与えられた幻、10章3節の異邦人コルネリウスに与えられた幻、同じく17節、19節、11章5節のペトロに与えられた幻、16章9節のパウロに与えられた幻です。これらは福音が与えられる過程で与えられた幻です。夢については旧約聖書に書かれているものが有名です。特に創世記のヨセフの夢やダニエル書のダニエルが解き明かした夢などは有名です。新約聖書にはイエス様の父ヨセフに現れた夢やピラトの妻が見た夢が記されています。これらは神の御心が示されています。
私たちは来年の創立40周年に向けて教会懇談会で10年後の幻を語り合おうと考えています。この教会は40年の間に起きたいろいろな困難を乗り越えて、現在があります。教会創設期の人々が抱いた幻は現実となり、土気あすみが丘の地に教会が建ち、礼拝が続いています。会堂が2度建設されました。1度目の会堂の時には牧師館の増設もおこなわれました。現在の会堂は当時の人々の夢によって祈りの空間として実現されました。「キリストの光が差し込む祈りの空間」それがこの礼拝堂です。建物はいくつかの課題を抱えていました。雨漏りが起きて対応に苦労したと聞いています。最後まで課題であった礼拝堂の水滴落下についてもようやく解決しそうな状況となってきました。神が与えてくださった若者の幻、老人の夢はここに実現したのです。これから先もここを中心に土気あすみが丘とその周辺に福音が広がっていくことでしょう。
受洗者が与えられるということ
これからAさんが洗礼を受けます。この人はコロナが発生する直前のクリスマスの時期におばあさんのSさんに誘われて教会に来て、クリスマスのキャロリングに参加したことがきっかけで、礼拝に集うようになり、洗礼を受ける決心をしました。この決心に至るまでに聖霊はAさんに働いておられたのです。Aさん本人も、私たちも、その時を知りませんでした。しかしその時は訪れたのです。
聖霊の賜物は私たちに与えられています。賜物とはプレゼントというよりも一人ひとりに与えられているカリスマです。カリスマとは特別な人に与えられるものではなく、私たち一人ひとりに与えられています。聖霊はコリントの信徒への手紙に書かれていますように、一人ひとりに分け与えられます。つまり私たちは一人では完成しないということです。一人では完全ではないということです。皆が持っているカリスマを用いることによって、皆がひとつになってキリストの体が完成する、完全な体になるのです。このことを忘れないようにしたいと思います。
それぞれの人に、知恵の言葉、知識の言葉、信仰、病気を癒す力、奇跡をおこなう力、預言する力、霊を見分ける力、異言を語る力、異言を解釈する力などが与えられています。それらは同じ聖霊の働きで、聖霊はそれを自由に望むままに私たちに分け与えておられます。
聖霊と私たちの歩み
教会は39年目の歩みを進めています。色々な困難に出逢ったことでしょう。しかし、今や、このようにすばらしい会堂が与えられ、多くの神を信じる人々が集まって神を信じています。このことこそ聖霊の恵みです。ここに集う私たちは神から与えられる幻を語りあいましょう。それは神が臨在しておられることを語り合うことであり、神の御言葉が与えられていることの感謝です。そしてこのことを広めていくことについて夢を描きましょう。