聖書 エレミヤ書29章8~14節、ルカによる福音書6章27~36節
戦争の悲惨さを思い出そう
今日8月6日は78年前に広島に原爆が落とされた日です。そして三日後の9日には長崎に原爆が落とされました。78年の年月は被爆国日本の私たちにとっても原爆の悲惨さの記憶が薄れてきているのですが、その記憶を呼び覚ましたのは2019年にローマカトリック教会の教皇フランシスコが長崎と広島を訪問したことでした。教皇は原爆が投下された2つの町から世界に核爆弾廃止を訴えました。
先の大戦が実に辛く悲しい現実として私たちに教えたのは「力では平和は守れない」ということでした。また、壮絶な地上戦が行われた沖縄の住民は「軍隊は自分たちを守らなかった」と証言しました。これが戦争の実体であります。宮田光雄氏は「平和構築のキリスト教倫理」という本の中で、今日の長距離ミサイルと核弾頭によって国境防衛という理論が意味を持たなくなっていることを指摘しています。つまり、いったん戦争が始まれば、最初から日本のどの場所も攻撃目標になりうるということです。軍事力で国を守ることはできなくなりました。
私たちはこのような中でイエス様が私たちに命じた27節の命令「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」を今日、あらためて心に留めなければなりません。「敵を愛しなさい」は35節でも繰り返されていることからイエス様のご命令の中心がこの言葉にあることが分かります。
主は敵を愛された
イエス様は28節から31節までと35節、36節に具体的な事柄を示されました。それらを列挙すると次のようになります。
- 悪口(わるぐち)を言う者に祝福を祈りなさい。(28節)
- あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。(28節)
- あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。(29節)
- 上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。(29節)
- 求める者には、だれにでも与えなさい。(30節)
- あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。(30節)
- 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。(31節)
- 人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。(35節)
- 憐れみ深い者となりなさい。(36節)
このうちのひとつでも私たちが実践できるものなどなさそうに思えます。そもそも「敵を愛する」、つまり私たちを迫害する者や、戦争をしかけてくる国や、私たちが憎む者を愛することなどできそうにありません。
このような問いにもかかわらず、イエス様の命令は私たちに迫ってきます。混乱やいさかい、紛争や戦争によって、人間が憎しみという道を歩いており、人間は破壊と滅亡へと進んでいることを知らされます。「敵を愛しなさい」というご命令は理想世界の非現実的なものではなく、私たちが生きていく上で絶対に必要なものなのです。イエス様はこのご命令を実践されました。私はイエス様がやすやすとこのことを行ったのではないと信じています。そうでなければゲッセマネで祈られることはなかったでしょう。神に背きご自分を殺そうとする人たちを愛するということの壮絶さを思い起こす時、私たちはイエス様の愛に打たれて、自分のちっぽけな自尊心が吹き飛ばされてしまいます。しかもその愛が本物であることを父なる神はイエス様を蘇られることによって示されたのです。イエス様の犠牲によって、そして私たちがイエス様の愛に打たれることによって、イエス様の命令を私たちが実践できるように私たちを変えてくださいました。
敵を愛する理由
キング牧師はアメリカの公民権運動の指導者としてよく知られた牧師でした。彼の説教に「汝の敵を愛せよ」というものがあります。彼はこの困難なイエス様の命令について、なぜ敵を愛するのかを語っています。
敵を愛する理由は4つあります。まず第1の理由は、憎しみに対して憎しみをもって報いることは憎しみを増す、ということです。憎しみは憎しみを和らげたり無くすことはできません。ただ愛することだけが憎しみを無くすことができます。
第2の理由は、憎しみは相手の魂を傷つけ、人格をゆがめてしまいます。そればかりか自分自身にとっても同じように心を蝕む有害なものです。
第3の理由は、愛は敵を友に変えることのできる唯一の力だということです。私の記憶が曖昧なのですが、先の大戦で怪我をして捕虜になった日本軍の兵士が敵国の病院で治療を受けているときに、親しく話しかけて手厚く看護してくれた看護師がいたそうです。ある時その人に理由を尋ねたところ、その人は自分の父親は日本軍に殺されたけれど、父の教えは敵を憎むなということだった。それで私はあなたを愛し、看護していると答えたそうです。それを聞いた兵士は彼女に心を開いたのだそうです。そして引き揚げて来て、このことを証しする人になりました。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。」(Ⅰコリ13:4)のです。彼女が憎い敵である彼を愛したことがこの兵士を変えたのです。確かこの人は牧師になったと記憶しています。
そして第4の理由こそ根本の究極の理由です。それは35節にある「そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。」というものです。「いと高き方の子」とは「神の子」のことですから、敵を愛することは一番良い報酬を得ることなのです。先週の聖書個所で「私たちは聖霊を受けて神の子の身分とさせていただいた」ことを知りました。神の子の身分となった者は神の愛を受けます。この愛は見返りを求めない神の無償の愛です。そして私たちは神とのこの特別な関係を実現するために、敵を愛するという困難な業に召されているのです。
私たちは自分の敵を愛さなければなりません、なぜなら敵を愛することによってのみ、私たちは神を知り、神の聖さの片りんを経験することができるからです。
神さまはイエス様をお遣わしになる前から預言者を通して、私たちに与えた御計画を明らかになさいました。エレミヤ書29章11節に「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」という言葉です。主は弱くされている人々を集めてくださいます。私たちにとって「力の平和ではなく、対話の平和を」という声は弱く、力ないものに聞こえます。直ぐに平和な状態になるのではなく、地道にこのことを訴えていって、人々にこのことが広まり、指導者たちが対話への道に戻るという、時間をかけた活動です。しかしこの活動こそがまことの平和を作り出すのです。
愛の実践
アフガニスタンのために人生をささげた中村哲さんはキリストの愛を実践した人でした。彼の言葉を紹介します。
「唯一の譲れぬ一線は、現地の人々の立場に立ち、現地の文化や価値観を尊重し、現地のために働くこと」。中村さんはアフガニスタンの人たちの友となり、アフガニスタン人として受け入れられました。中村さんが始めた灌漑事業は今も引き継がれて進められています。人間は不完全ではあっても相手の立場に立つことができることを中村さんは自分の生き様として示しました。
そして彼は「平和とは観念ではなく、実態である。」という言葉を残しました。平和は頭の中で考えることではなく、行動し作り上げて行くものであるという意味だと思います。敵を愛するとは憎んでいる人を愛するということ。自分が愛する人を愛するのはだれでも出来ることですが、神の子とされた者には憎んでいる人を愛することすら可能になるのです。そしてイエス様はそれを実践するようにと命じておられます。
日本基督教団の2023年度の平和メッセージには「私たちは主イエス・キリストこそ和解と平和の主であることを信じ、主が私たちに求められる隣人愛を心に刻み、この愛から生まれる平和だけが、この世界の危機を克服出来るものと信じ、ここに平和メッセージを宣言いたします。」と書かれています。
隣人愛は神さまが私たちを愛して下さり、聖霊によって私たちに与えてくださる愛です。イエス様の「敵を愛しなさい」は困難であっても不可能ではありません。イエス様は命じるだけでなく、私たちが祈り求めるならばそのようにできる者にしてくださいます。
愛するとは意志であり行動である
愛するとは状態を表すのではなく、意志であり行動です。だから憎む者を愛することができるのです。まことの平和は敵を愛することによってのみ実現されることを忘れずに、敵を愛する者にならせていただきたいと思います。