9月10日礼拝説教「救いは近づいている」

聖書 出エジプト記12章12~14節、ローマの信徒への手紙13章8~14節

無償の愛の神

キリスト教は愛の宗教と言われます。神は審判者ではなくご自分が創造されたものを愛し導く存在であるということを説く宗教だからです。旧約聖書に描かれている神は生殺与奪の権利を持つ審判者のように思われますが、旧約聖書であっても神が私たちを造り祝福したことや、苦難から救い出したことが描かれており、聖書全体はこのことをいつも覚える記述に溢れています。神のみがご自分の創造した者に命を与え、命を取り去り、さらにはまた命を与えることがおできになるお方です。神を人と同列に扱い「神が命を奪うのはおかしい」ということはできないのです。この神は私たちを無償の愛で愛しておられます。ご自分の独り子さえ私たち人間にお与えになりました。

先週、私たちは「愛には偽りはありません」という御言葉を聞きました。この愛は私たちが普段使う恋愛感情の愛ではなく、神さまが私たちを愛してくださる愛のことです。この愛は真実であり、見返りを求めません。

恩送りの共同体

今日私たちは「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。」というローマの信徒への手紙13章8節の言葉を聞きました。この「愛し合う」は「無償の愛によって愛し合う」と書かれています。恋愛感情をもって愛し合うというのとは違う愛の形といいますか、交わりが求められています。「私がこれだけのことをしたから、あなたもそれに見合うことをしてよね」というようなギブアンドテイクの愛ではなくて、「私が誰かにしたことを、誰かは私に返すのではなくて他の人にする」というペイ・フォワードの愛と言い換えても良いと思います。ギブアンドテイクは恩返し、ペイ・フォワードは恩送りと言えば分かりやすいと思います。恩送りが循環する共同体は無償の愛に満ちているといえます。

8節には更に「誰に対しても借りがあってはなりません」と書かれています。借りとは負債のことです。少し前の6節、7節には貢や税をちゃんと納めて義務を果たすように勧告されていますが、このようにするのは誰に対しても負債がない状態になるようにということであり、それは8節の「誰に対しても借りがあってはなりません」ということに通じます。つまり信仰者は社会や隣人に対してきちんと義務を果たし、負債がないような生活をしなさいという勧告です。そしてこれは、言い換えれば「あなたがたは自由でありなさい」という勧告なのです。何ものにも負債がなく自由であるのが信仰者だとパウロは告げています。

ところが一つだけ例外があります。それが「互いに愛し合う」ということです。「互いに愛すること」あるいは「恩送り」をすることの負債は返すことができないのです。「互いに愛し合いなさい」ということは無償の愛による恩送りの大きな循環を生みます。ですから「互いに愛し合う」ことから逃れて自由になろうとしてはいけないのです。これから自由になればもはや生き生きとした人生を歩むことはできません。これは面倒なことです。できれば自由でいたいと思うかもしれませんが、この負債を自覚して自分のものとして引き受けていく生き方に充実と喜びがあります。

8節後半には「人を愛する者は、律法を全うしているのです」と書かれています。律法の戒めの例として9節に4つの例が挙げられております。そしてその後に「そのほかどんな掟があっても」と書かれています。律法の数は613あります。これらの戒律をすべて守ることは当時も難しかったことが窺える聖書の記事があります。最も厳格なファリサイ派の人々や聖書を研究している律法学者がイエス様に「律法の中で、どの掟がもっとも重要でしょうか」と尋ねた場面です。マルコによる福音書12章30節などです。この問いは律法の戒めのうちどれを厳格に守れば良いかを問う問いです。このように律法をすべて守ることは現代の私たちが考えるよりはるかに難しいことであったということが分かるかと思います。

それに対してイエス様は「あなたの神である主を愛しなさい。」、「隣人を自分のように愛しなさい。」という戒めを与えました。この愛は無償の愛です。この愛の共同体の一員であることの方が、すべての律法を記憶し、間違いなく行う生き方より易しいであろうことは容易に想像できます。パウロもイエス様の言葉を繰り返し、9節後半に『どんな掟も「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます』と書いています。

10節に「愛は隣人に悪を行いません」と書かれています。無償の愛は見返りを求めないので、その愛によって愛する者は隣人を苦しめることはありません。この愛によって互いに愛し合う人々はすべての律法を満たしています、なぜならばすべての律法が無償の愛をこの世界に実現するために与えられているからです。互いに愛し合うということは恩送りの共同体の中に身を置くということですから、このことを信じて実行する人々が広がることによってこの共同体は広がっていきます。

それでは律法を持たず、互いに愛し合わない、いわば現代日本に住んでいる人たちはどうなのかといえば、もちろん一人ひとり生き方は違いますから一概にいうことはできませんが、もし何が正しい道であるかが分からないままに日々を送っているならばその人は不満を持って生きているのではないかと思います。神を知らないということは自分の存在の意味を知らないことですから、どこかに空虚さが漂う生き方になっているのではないかと思います。神を信じて互いに愛し合う共同体が成長し、そこにその様な人たちが加わるならば、その人たちは活き活きとした人生を歩むようになるのではないかと思います。

救い完成の希望

ところで「互いに愛し合う」ということが私たちにできるかどうかを顧みる時、私たちは自信が持てないという思いになるのではないでしょうか。人の心を知ることなど、あるいはその人が何を望んでいるかを知ることなど私たちにはできません。どこかでやはり自分が一番可愛いと思っているのではないでしょうか。つまり私たちはパウロが勧告している「互いに愛し合う」ことが確かに善いことで神さまの御旨に適っていると理解していても、それを実行するための能力も霊的な力も持ち合わせてはいないということです。悲しいですが、これが現実ではないでしょうか。

しかし私たちは落胆する必要はありません。神さまは「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(創2:18)と言われてエバをお造りになったように、私たちが一人では生きていけないように私たちをお造りになったのですから、人は人を必要としています。このことが現代では煩わしいと言うふうになっていますが、共同作業には喜びがあります。明治以前の良き文化や風習を古文書から読み取って本にしたものに渡辺京二の『逝しき世の面影』というものがあります。その中にこんなエピソードが紹介されています。

幕末に横浜に上陸したモースという人物は運河の入口に新しい堤防を築いている労働者集団を目にしました。その人たちは重い錘(おもり)を滑車で引き揚げて杭を打っているのですが、変な単調な歌が歌われ、歌の終わりに揃って縄を引き、錘が上がったところで綱を緩めて錘を落とす動作を繰り返していました。モースはその人たちが少しも錘を上げる努力をしないで歌を歌うのはまことにばからしい時間の浪費に見えました。時間の9割は歌を歌うのに費やされていたからです。しかしこれにはとても大切なことが隠されていました。歌っている時間を省き体力の許す限り連続的に労働すれば、仕事の効率は何倍も向上するに違いないのですが、それは単なる労役です。ところが彼らは何の喜びもない労役になりかねないものを歌を歌うことによって集団的な喜びに変えていたのです。現代的な考えからすれば非効率きわまりない労働を精神的肉体的な生命の自己活動にするためにそのような働き方をしていたのだというのです。

互いに愛し合い何事かを為すということはこういうことではないかと思います。神はもともとそのような存在として私たちをお造りになっておられるのです。

11節「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」

神の救いの時がづいています。イエス様は再びこの世界に来てくださると約束されました。その時には罪を身にまとった私たちが本来の神の創造の姿に変えられるのです。今現在、互いに愛し合うことが十分にできていなくても悲観する必要はありません。私たちが神の似姿に近づいて行くことができるようにイエス様が執り成しをしておられますし、再臨の時には私たちをそのようにしてくださいます。

エジプトで奴隷になっていた民が解放される時に主はエジプトの長子を撃ちましたが、家の戸口に犠牲の羊の血を塗っている家は通り過ぎられました。神の救いはこのように神を信じ、神の言葉を受けて行う者に訪れるのです。

イエス様を身にまとうという生き方

12節「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」

パウロはこの世界が夜であると知っています。世界中で、日本の中で、利権というサタンの誘惑に惑わされて傲慢な生き方をしている人たちがいて、多くの善意の人々を惑わし、苦しめています。信仰者はそれに加担してはなりません。自分だけが旨い汁を吸うような生き方ではなく互いに愛し合う、恩送りの共同体に身を置き、その共同体を大きくすばらしいものにしていく働きに参加したいと思います。私たちには光の武具と呼ばれる福音があります。預言者イザヤは「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:31)と私たちに告げています。この福音を携えて雄々しく歩んでいきたいと思います。

 

13-14節「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」

夜が更けるということは朝が近いということを私たちは知っています。だから夜の間にも日中を歩むように主を愛し、互いに愛し合いながら歩んでいきましょう。

「主イエス・キリストを身にまとう」というのは、ちょうど役者が役を生き抜くという真剣さで舞台に立つように、キリスト者がキリスト・イエス様の生き様を生きることです。イエス様が再臨される日に私たちは生きている者も死んだ者も神の栄光の豊かさへと戻していただけます。私たちはその希望の中に生きています。

イエス様再臨の希望に生きる

私たちは今日「互いに愛し合いましょう」というパウロの勧告を聞き、私たちがそれは難しくてできないことだと諦めることのないように、イエス様の再臨の希望を聞きました。私たちはパウロによって示された神の約束を信じて、完全にはできなくても「互いに愛し合う」ことを努力したいと思います。それは別の言葉で言えば恩送りの共同体の一員として歩み続けるということです。