聖書 出エジプト記16章12~15節、フィリピの信徒への手紙1章21~30節
牢獄でのパウロの自由
パウロはフィリピの信徒への手紙を書いたとき、牢に入れられ監禁されていました。1章13節に「わたしが監禁されているのはキリストのためです」と書かれていることからこのことがわかります。
監禁ということで思い浮かぶのは、狭い空間、硬いベッド、ダニやシラミやネズミなどの不衛生な環境といったものです。当時は風呂にも入れなかったかもしれません。暑さや寒さをしのげるような衣服が与えられなかったかもしれません。いつも監視されていてくつろぐこともできないでしょう。普通の人間だったら精神的にも肉体的にも弱っていくと思います。
パウロはどうだったでしょうか。使徒言行録16章25節あるように、パウロは賛美の歌を歌い神を讃えていました。またそれぞれの教会の信徒たちのことを思い祝福を祈り、手紙を書いて送っていました。フィリピの信徒への手紙1章の最初の方にはその様子が書かれており、例えば4節には「あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」という言葉があります。パウロは狭い空間で監視され身体的な自由を奪われていても自由でした。
なぜパウロはその様であったかということを考える時、旧約聖書の出エジプト記に記されている、荒野で民が神さまによって養われたという出来事を思い起こします。神さまは民の不平をお聞きになり、夕暮れにはウズラを与え、朝には荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすい霜(しも)のようなマナという食べ物を毎日その日に必要な分だけ与えて民を養ったのです。
パウロはどのような境遇にあろうともこの世で神さまが自分を必要としておられる間は、養ってくださると固く信じていたのです。
フィリピの信徒たちはパウロが投獄されたことを知って献金や贈り物を携えてパウロに会いに行きました。パウロはそのことを喜び、そしてこの手紙を書きました。そでだけではなくキリスト者の生き方を教え、人々を励ましました。それはパウロ自身の生き方でありました。福音を伝えたという理由で拘束され監獄で拘束されていても自由であったパウロ。そのパウロから私たちにメッセージが届けられています。それはどのようなものでしょうか。み言葉に聞いてまいりましょう。
生きることと死ぬこと
21節に「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」と書いてあります。この個所を、ルターはキリストを主語にして「キリストは私の命であり、死は私の利益です」と訳しました。つまりパウロはキリストの救いを信じているので生きることも、死ぬこともどちらでも良いと考えています。キリストとつながっているかどうかがパウロにとって一番の問題でした。
22節には「けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。」と書かれています。「肉において生きる」という表現は「肉に従って生きる」というものと違います。「肉に従って生きる」というのは道徳的に不適切な生き方(ロマ7:5)のことを表します。それに対して「肉において生きる」というのは生きているということを表していますから、パウロは「死は私の利益」と書きながらも、この世界に生きていれば実り多い働きができると考えていました。
私たちが生きていたいと考えるのは、このまま何事もなく日々を送りたいという、いわば自分の利益のためでありますが、パウロはそうではなくて、他人のために働くために生きている方が良いと考えたのです。
パウロは生きることと死ぬことの二つのことで板挟みの状態であると告白しています。23節と24節に「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。」と書かれています。パウロにとっては神の国でキリストと共にいることの方が望みなのです。できることなら神のもとに行きたいと願っています。しかしパウロがこの世に生きていることを良しとするのは自分のためではなく福音を必要としている人たちのためです。生きることはパウロ自身の楽しみのためではありません。彼にとって生きるとは使命を果たすことなのです。
それでは彼の喜びはどこにあったでしょうか。それは人々が福音を受け入れてそれぞれの人生を活き活きと過ごすようになり、そのことによって地上に愛の共同体が広がることにあったと思います。苦しみを受けることもこの喜びに比べれば大したことではなかったのです。
パウロは25節に「あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。」と書いています。裁判の行方はまだ分からない状態であるにもかかわらずパウロは確信をもって再び会うと書いています。これは信仰による希望です。さらに言えば、離れていても彼らの心は一つなのです。パウロは福音を語ることを止めるわけにはいきませんでした。
26節に「そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。」と書かれています。パウロは信徒たちと会ったときに信徒たちがキリスト・イエス様と結ばれており、それを誇りにしていることを知って喜びに包まれることを確信しています。そして信徒たちはパウロのそのような様子を見て、尚更、自分たちがキリストに結ばれていることを誇りに思うようになると彼らに対する信頼を表明しています。
勧告は私たちを生かすため
27節からは勧告の言葉です。27節に「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っています。」と書かれています。「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。」というのは、キリストが彼らを支えておられ、もし彼らが罪を犯したならば彼らが神に立ち帰るまで父なる神に執り成しておられるという信仰を前提とした言葉です。キリストのために、キリストが私たちに教え、自らもそれを実行した福音にふさわしい生活を送るのは当然であります。これは実行できるかできないかの問題ではなくキリストを知ればそのようにせざるを得なくなるということなのです。
ローマの信徒への手紙1章29節から31節に行ってはならないことが列挙されています。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲であることです。
逆に、行うように奨励されているのは、光の武具を身に着けること、日中を歩むように品位をもって日々を送ること、酒宴、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみを捨てること、そして主イエス・キリストを身にまとうことです。これはローマの信徒への手紙13章12節から14節に書かれています。
禁止と奨励のもとになっているのはイエス様が言われた「あなたの神である主を愛しなさいということと、隣人を自分のように愛しなさい」(マコ12:30~31)ということです。これらを私たちの努力で実行することは不可能といえるでしょうが、神さまにこのような者にならせてくださいと願い、その努力をするならばきっと神さまがその道を歩ませてくださいます。その道から外れても必ずイエス様が道に戻してくださいます。
28節に「どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはありません。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。」と書かれています。
イエス様に結ばれて互いに愛し合う共同体にいる人々は反対者たちに脅されてもたじろぐことはありません。なぜならばキリストに結ばれていて、キリストに倣う生活をすればよいのだという基盤がしっかりあるからです。逆に反対者たちに愛の交わりの豊かさや喜びを示す良い機会とすることができるでしょう。
29節に「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」と書かれています。
パウロが苦しむことを恵みだと語るのは、苦しめと言っているのではありません。キリストを信じることは、これ以上のことはないと言うほどに大切なことだから、そのことを離さないようにと言っているのです。もしキリストから離れればどう生きて良いか分からなくなるでしょう。権力者におびえ、自分の中にある得体のしれない闇におびえて生きるしかなくなります。キリスト者はキリストから離そうとする如何なる外敵に対しても自分を守らなければなりません。私たちには神の武具があります。私たちが相手にしているのは「支配と権威」です。それは闇の力といっても良いでしょう。エフェソの信徒への手紙6章には「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」と書かれていますが、これが神の武具です。これらを揃えるのに金銭は必要ありません。ただ聖書の御言葉と神を信頼する信仰があれば良いのです。
30節に「あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。」と書かれています。
パウロの戦いを想像しましょう。パウロの苦しみを知りましょう。パウロは牢獄につながれていても、キリストにある自由を持っていました。その自由によって彼は牢獄の外にいるキリスト者を励まし続けました。私たちもパウロに倣い、キリスト・イエス様に倣う者です。キリストに結ばれているという点で、パウロと私たちとに違いはありません。パウロのような働きができなくても私たちにできる働きがあります。
キリストに結ばれる生き方
パウロは生も死も問題とせず、ただキリストに結ばれていることを第一としていました。フィリピの信徒たちへの勧告も「キリストに結ばれているように」というものでした。
パウロは誰によって養われ生かされているかを知っていたからであります。旧約の出エジプトの民が荒れ野で養われということは「神は私たちを養ってくださる」というしるしなのです。パウロは神の愛の大きさを知っているからこそ、キリストに結ばれて神に喜ばれる生活をするよう私たちに勧告しているのです。私たちは自分のことは自分で養っているように勘違いしますが、神が養ってくださらなければ私たちは生きていくことができません。このことに気づくならば、パウロの生き方とパウロの勧告は納得がいくものであることに気がつきます。
私たちはキリスト者だから立派な生活を送らなければならないのではありません。神さまが養ってくださっているから、キリスト・イエス様に結ばれて、神さまの喜ばれることをしようと心がけるのです。パウロは信仰による自由を得て獄中から私たちを励ましています。それもまた神が私たちを養っていてくださることなのです。