11月19日礼拝説教「罪の鎖を解く」

聖書 マタイによる福音書5章38~48節

説教者 西岡昌一郎牧師(千葉教会)

憎悪の連鎖

21世紀に入って、9.・11事件以降の世界の情勢は、「敵意」「憎悪」「報復」という言葉が、「信頼」「和解」「対話」という言葉を圧倒して凌駕しています。このような中にあって数えきれない命が傷つけられ、損なわれてきています。特に抵抗することすらできない人たちが犠牲になる戦いをわたしたちは見てきています。たとえ、そこにどういう大義や名分があっても、そのような犠牲を合理化して片付けるわけにはいかないと思います。
子どもたちや病人たちが犠牲になっていく現実を前に、どっちが正しいとか、間違っているとか言い合っている場合ではない。ただちに武器を置いて、戦いを止めるしかないはずです。なのに敵意が憎悪を生み、憎悪が争いと報復につながる悪循環があります。この悪循環を憎悪の連鎖と呼んだ人もいました。わたしたちは、そのような罪の鎖からどのように解き放たれて行ったら良いのでしょうか。これは本当に大変な問題です。もしこれが実現できたなら、この世界は神の国になっているのだと思うほどですね。
「目には目を、歯には歯を」(38節)という言葉は、出エジプト記21章23〜25節にある言葉から来たものです。これをよくご覧になるとわかるように、人の命を損なった者は自分の命をもって、また目を損なった者は自分の目をもって、歯を損なった者は自分の歯をもって償うと言うのが、本来はこの掟の趣旨なのですね。つまり償いの精神であって、復讐の精神ではありません。これはどういうことかと言いますと、償いという考え方は、いたずらな復讐や報復を避けるためのものだったと言います。つまり仕返しやあだ討ちと言うのは、どうしても憎しみの感情に駆られまして、往々にして自分が受けた被害以上に大きな処罰を強いることになってしまい、しかも、その多くの場合、きちんとした手続きも踏まえずに個人的な復讐(私刑)になってしまうのですね。それを抑制するために、旧約聖書は報復や復讐の立場からではなく、償いの立場からこのような規定を設けたのでした。
しかし残念ながら、長い年月が過ぎていくと、その精神が見失われ、この規定もいつしか再び報復と復讐の論理にからめとられてしまったのです。それでイエスはその点をふまえながら、悪人に手向かうな、誰かが右のほおを打つなら、左のほおを向けよと、驚くべきことを言われたのです。しかし、これでは悪人のやりたい放題で、やられた者はやられっぱなしじゃないかという不満が起こるのは当然のことだろうと思うのです。

イエス様の御心

イエスはこれを通してわたしたちに何を考えさせようとしているのでしょうか。一つは力に対して力で応じることは、特に弱者に立つ立場の者にとっては、けっして有効な手段とは言えないという前提に立っているように思います。つまりある程度対等な関係の中で、「目には目を」という場合にはともかくも、多くの場合は、やられた方が弱い立場である場合がありますので、そこで下手に抵抗して反抗してみても、やられっぱなしで、逆にもっと手ひどい返り討ちを食らわされて、さらに悲惨なことになるということが考えられますね。やられたことに対してやり返すというのは、特に圧倒的に力関係の差が開いている間では、悔しいことではあるけれども、結果的にあまり有効なものとはならないという面があるのではないでしょうか。だから、その場では無駄な抵抗をして手向かわずに、なんとかやり過ごすことを教えようとしたのだと思います。
今ひとつは、仮にお互いが、相手からやられたことを相手にやり返すことができたとしても、だからと言って、それで問題の事柄が解決するわけではないということです。たとえば、よく聞かされるのは、死刑判決を受けた人が死刑になったとしても、その被害者の家族はそれで満足できるかと言うと、けっしてそういうわけではありません。それによって失った者が生きて帰ってくるわけでもなく、言いようのないむなしさが残るのですね。死刑執行によって、いくぶんか心の恨みが晴れることはあるかもしれないけれども、問題の事柄そのものがそれによって解決するわけではないのです。
「やられたらやり返す」と言うのは、人間的感情としては、ある程度理解できなくはないものがありますが、しかしそれは事柄の解決に至るものではなく、むしろ積み残されてしまうものは多く残るのです。それどころか、下手をすれば、さらにもっと新しい恨みと対立を作り出すきっかけにさえなりますね。
かつて9・11のテロをきっかけにアメリカがイラクに対して行なったことは何だったでしょう。イラクに大量破壊兵器があるという言い分でアメリカはイラクを攻撃しましたが、後になって大量兵器はなかったことがわかりました。あまりにも不毛な報復攻撃でした。
また現在のイスラエルとパレスティナの間で起きていることも、仕返しが新たな争いの種を撒き続けていくのです。「何にも悪いことなんかしていないのに、どうしてこんな目に遭わなくてはならないの!」と泣きながら叫んでいる小さな子どもたちでさえ、何年かして大きくなっていけば、憎悪と報復の気持ちで武器をもって戦い始めることになるのではないかと思うと際限がありません。武力の介入で世界が平和になるのなら、この世界はとっくに平和になっているはずです。人類はこれまでいったいどれだけ戦いを繰り返してきたことでしょうか。少なくとも、イスラエルとパレスティナはとっくに十分に平和になるだけの争いを武力でもって繰り返してきたのです。これがいつまで続くのか。
イエスは、力の応酬とは別の次元での問題対処のしかたを、きょうのような言葉で提起することによって、わたしたちの間に一つの波紋を投げかけようとしているように思うのです。ですから、主は、やられたらやり返すという方法とは別の道を示そうとしているのであって、わたしたちはその別の道を探すほかはありません。

キング牧師のこと

マルティン・ルーサー・キング牧師は、「憎悪には愛で答え、肉体的暴力は魂の力で答える」と言いましたが。暴力を暴力で押さえ込むのは限界があります。本当は身構えて、強がったり、脅したり、威圧したりする必要がないような関係を少しずつこつこつと作っていくことです。このために痛みを伴なった代償を払いながらでも、絡みついた鎖を少しずつ解いていくほかないのでしょう。力による問題解決で希望を見ることはできません。非暴力の持つ道義的な基盤に互いの足場を置くことで、希望を見出すのです。でも、今の世界はそれができないのです。
一方、43節以下には、敵を愛し、迫害する者のために祈るべきことが書かれています。イエス・キリストも、十字架において、ご自分の身にその代償を引き受けられて、人間の罪の鎖を解き放ってくださった方です。これによって神の愛が身をもって示されたのでした。ここでイエスが言おうとされたのは、わたしたちが自分たちの考えに合う者だけを「正しい者」(義なる者)として歓迎したり、逆にそれに反する者を「正しくない者」(不義なる者)、敵対する者として憎んだりして、勝手に善人だとか悪人だとか色分けをしてしまっているけれども、しかし、父なる神はその悪人と呼ばれている人の上にも、善人と呼ばれている人の上にも、太陽を昇らせ、雨を降らせて下さる神なのです。ですから人間のけちな色分けに縛られない大きな神の愛のまなざしのもとで、わたしたちも、もう一度すべてを受け取り直す必要が教えられているのです。
この神の愛は、人間が目先にとらわれて、争って斥け合おうとするような狭い了見に縛られてはいません。たとえ悪人だとか、敵だとか言われている人たちであっても、立場を変えて見ると、神の愛が注がれている人たちであることには変わりがないのです。
このようにキリストは力による対立や、善悪あるいは敵味方を分けることでは解決にならないものがあることを指し示そうとしています。それがここでは忍従や苦しみを引き受ける姿や、敵を愛し、迫害する者のために祈るという姿を通して、そういう形で初めて切り開かれる世界があるのだということを感じます。

争いの鎖を解く

言われたら言い返し、批判されたら批判し返して、自らの立場の正しさを主張して、はばかろうとせず、自分の弱みや至らなさ、漬け込まれるようなことを許してはいけないと身構えて対立しているだけでは、争いの鎖を解き、はずすことはできないのです。痛みを伴なう謝罪とゆるしこそが、互いの和らぎの扉を開く鍵になるのです。謝罪が新しい関係を作り直す力を持っているのです。わたしたちは、そういうところから切り開かれてくる和解の世界を、もっともっとこの世に証し続けていかなくてはならないのです。主の十字架の福音は、まさにそういう真実を指し示してくれているからです。わたしたちは繰り返し、この十字架の主の贖いにあずかって、主の前に魂を砕かれていく必要があります。こじれきった罪の鎖を解くのは、十字架と和解の福音によるほかありません。