聖書 エゼキエル書34章11~16節、エフェソの信徒への手紙1章15~23節
教会はキリストの体
パウロは、「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方、キリストの満ちておられる場です」、と語ります。現実の教会にはいろいろな問題があり、足りないものがあります。必ずしも心地よくいられるわけではありませんが、その場所がキリストの体であり、キリストの満ちている場だと教えるのです。
本日は、「教会はキリストの体でありキリストの満ちている場」というのはどういうことなのかをエフェソの信徒への手紙とエゼキエル書のみ言葉に聞いてまいりたいと思います。
パウロの祈り
パウロはエフェソの信徒たちのことを神に感謝しています。「あなた方が主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。」(15、16節)という言葉です。そしてに、信徒たちが、「神から知恵と啓示とを受けることができるように」、「心の目が開かれるように」、また「与えられている希望と栄光を悟ることができるように」、そして「神の力は非常に大きいことを悟るように」と祈ります(17~19節)。
パウロは押し付けるのではなく、自分自身がキリストを通して神から受けた啓示を手紙を読んだ人々が受け入れることができるように神に祈っています。パウロが受けたものは啓示ですから、それを伝えるには神の力をいただかなければなりません。そのために祈っています。
「分かる」というのには段階があるように思います。知識として知るという段階があります。そしてその事柄を納得し生き方を変えようと思うようになるというものです。私たちが神を深く知ることができて、心の目が開かれた時に、はじめて「教会はキリストの体でありキリストの満ちている場」ということが分かってくるということをパウロは良く知っていたのです。
20節からはキリストのことが語られます。キリストとはイエス様の尊称で「救い主」を表します。キリストは2000年ほど前にユダヤで生まれ、人々に福音を告げ知らせて、十字架につけられて死なれましたが、三日目に復活されました。キリストを死者の中から復活させたお方は父なる神です。死者の中から復活させることのお出来になる存在は神以外には在りません。神の力は私たちの想像をはるかに超えるほど大きなものなのです。ここでパウロは神の力の大きさを示すためにキリストの復活を示しました。
キリストは復活して神の右にお着きになり、この世界のすべてを支配されています。この世界のすべてのものはキリストの支配の内にあります。このことは私たちが見えるものだけでなく、見えない神の働きを見ると言うか、感じることによって悟ることができるようになります。そしてパウロは私たちが悟ることができるように神に祈っています。私たちも悟ることができるように祈りたいと思います。
全能の神がこのキリストをすべてのものの上にある頭(かしら)として教会にお与えになりました(22節)。ですから教会はキリストの体です。教会には、すべてにおいてすべてを満たしている方、すなわちキリストが満ちておられます(23節)。
教会で告げられる赦し
さて、現実にはいろいろな課題を抱えている教会がキリストの体であるということはどういう意味でしょうか。私たちはパウロの言葉を黙想していきたいと思います。パウロを通して神の御旨に近づいていきたいと思います。
現実の問題を考える前に、旧約のエゼキエル書34章11節から16節を読みたいと思います。ここには神がどのようなお方であるのかを神ご自身が語っている言葉が記されています。神は、「散り散りになった人々を探し出し、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」(16節)と語っています。
預言者エゼキエルの言葉を聞いた人々は神が祝福したユダヤの人々で、ユダヤが滅亡したときに遠いバビロンに労働力として連れ去られた人々でした。そのような人々は戦勝国バビロニアの人々からすれば家畜同然の存在でありました。
その彼らを神は励まし続けたのです。そして彼らを探し出し、連れ戻し、癒し、強くすると約束されました。この約束はバビロン捕囚の開始から70年後に果たされ、ユダヤの人々は故郷のエルサレムに帰ることができました。
神は「散り散りになった人々を探し出し、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」(16節)お方です。このお方はそのことを成し遂げる力を持っておられます。それはパウロが語るように、私たちの想像をはるかに超える神の力です。今日(こんにち)においても神はそのような人々を探し出し、集めてくださり、強くしてくださいます。私たちが離れていても分断されているのではなくキリストを通してひとつにされています。世界中のキリストの教会で聖書が読まれ、福音が語られており、そこで救いの業が起こされています。主の裁きは公平です。主は弱り果てて迷っている者を集めて養ってくださり、一方で強い者や傲慢な者を砕かれます。
教会にいろいろな問題があっても、足りないものがあっても、無くてはならないものが厳然と存在しているのです。それがキリストであります。教会では神の言葉が語られ、その御言葉を受け入れた人々に救いが与えられます。主を信じている人々も信じていない人々も、御言葉を聞いて受け入れることによって救いが与えられます。これが「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」というパウロの言葉の意味することであります。
イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタ11:28)と言われました。教会にはキリストがかしらとしておられ、キリストが満ちています。この場で私たちをいろいろな束縛から解放して、救ってくださいます。心ならずも犯してしまった過ちを赦して下さり、「あなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハ8:11)と赦しを与えてくださるキリストがおられます。
神がおられる強さ
さて、今の世の中で、このことを信じる価値はあるでしょうか。この世の中、結局、強い者が我が物顔に支配しているではありませんか。そう考える人は多いと思います。
しかし、そう見えるのは物事の表面、見える部分しか見ていないからです。強い者が何の心配もなく、心豊かに暮らしていると考えるのは、表面的なものしか見ていないからだといえます。この世的に成功している者で傲慢な者は強い者と思われていますが、このような人たちも決して幸福ではありません。幸福を享受しているようにみえますが実は不安を抱えています。それは、いつこのような幸せな状態から落ちてしまうだろうかと心配しています。つまり心の一番深いところでは不安があるのです。
一方、弱い者はこの世的なものはわずかしか持っていません。しかし弱い者が神に頼るならば、本当の強さを持つことができます。神を信じ、神の導きに信頼して歩む者は心に安心がある。根源的な支えを持っているのです。
さだまさしさんの歌に『償い』というものがあります。この歌は本人の話によると実話を元にして作られました。その実話とはこのようなものです。
会社にある人がいて、彼は給料日になると同僚と付き合うこともせず必ず郵便局に行っていました。同僚は彼を見て「しみったれたやつだ」とあざ笑っていました。しかし彼には秘密がありました。昔、交通事故を起こして働き盛りの男性を死に至らしめたのです。彼は事故で亡くなった男性の奥さんに毎月謝罪の手紙と共に送金をしていたのでした。彼は奥さんからの返事がなくても送金を続けました。それは彼の人生をかけての償いでした。彼は一生の間でもそのような形で謝罪を続けたことでしょう。
7年目に奥さんから始めて手紙がありました。それには彼の7年にもわたる誠実な謝罪と送金に対して、「あなたの気持ちは良く分かりました。だからどうぞ送金はやめてください。どうかもうあなたご自身の人生を元に戻してください。」と書かれていたそうです。
さださんは歌います。『彼は償いきれるはずもない奥さんから返事が来たのがありがたくて、ありがたくて、ありがたくて。「神さま」って彼は思わず叫んでいた。」こんな歌詞です。彼の誠実さによって奥さんの心が癒されそして、彼は神を感じたのでしょう。彼はその後も送金を続けたそうです。
このような話です。この人は奥さんの手紙で救われました。そして奥さんも彼の誠実さによって憎しみが消え新たな人生を歩み始めたことでしょう。
しかしこのような話が感動を呼ぶというのは、逆の意味で、このような赦しは非常に稀にしか起きないということでもあります。人間は簡単には赦すことができません。赦されたいと願っていても赦してはもらえないことのほうが多いでしょう。
ところが教会では神の言葉によって悔い改めが促され、悔い改めた人に赦しが与えられるのです。そして「これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハ8:11)というキリストの諭しが与えられるのです。教会がキリストの体でありキリストが満ちているところだというのは、このように神の言葉が語られ、赦しの業が起こされているからです。教会にはキリストが満ちていますから、このこと以外の他の何ものも問題でも、足りないこともありません。
人間同士では謝罪が受け入れられない時もあります。取り返しのつかないことをしてしまったならば人生はそれで終わりだと思えます。しかしイエス様が私たちに代わり、父なる神に祈り、私たちを贖ってくださいました。神が赦さなかったら人が赦すことはありません。そして人が赦さなかったとしても神が赦すならば、その人は赦されるのです。償いをしながらも人は新しい生を生きることができるようになります。キリストは今も私たちを神に執り成していてくださいます。
教会は神が治めておられる
教会はキリストの体であり、すべてを満たされるキリストが満ちています。この場において神の言葉が語られ、赦しの業が起こされるのです。この赦しの恵みはどなたも受けることができます。神は全能であり、神にできないことはありません。その神がこの教会を治めておられます。