12月10日礼拝説教「良い知らせ」

聖書 イザヤ書40章9~11節、マルコによる福音書1章1~8節

良い知らせとは

今朝は「良い知らせ」についての御言葉が与えられました。良く知られている話としてはマラソンの起源があります。古代ギリシアの兵士が 40キロの道のりを走りとおして、ギリシアのアテネの人々にペルシアとの戦いに勝ったことを伝えました。アテネの人々はその知らせを待ち望んでいたので、兵士の知らせに皆が喜びました。この兵士がもたらしたものは「良い知らせ」でした。

私たちは人生を振り返ってみると、誰でも「良い知らせ」を聞いた経験を持っていると思います。私にとっての「良い知らせ」を思い出しますと、中学の時に受験したアマチュア無線技士試験の合格通知の郵便がそうでした。片田舎の中学生が当時全国で7カ所くらいしかなかった遠くの試験会場の一つにまで行き、試験を受けて帰ってきて、合否を待ちわびていたのです。そこに合格の通知が届いたのですから、それこそ躍り上がるほど嬉しかったことを思い出します。

今朝、私たちは「良い知らせ」について語る聖書の御言葉を聞きました。預言者イザヤは捕囚となり苦難の生活をしなければならなかった人々に「主なる神が力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。そのお方は羊飼いのように人々を養って導いて行かれる」というイザヤ書40章10節、11節の言葉を告げる「良い知らせを告げる者」を送る、という神の言葉を告げました。しかし、この良い知らせを告げる者とは一体、誰なのかということは長い間分りませんでした。

今、待ち望む良い知らせ

イザヤの時代の人々が聞いた預言はイエス様の時代の人々も旧約聖書を通して聞いていました。人々は長い間「良い知らせを告げる者」が現れることを待っていました。というのもユダヤは長い間、外国に支配されていて、人々は自分たちの文化や言葉を変えさせられ、生活も苦しかったからです。

今、世界は戦争の危機が迫っているように感じられます。この流れを止めることは私たちにはできないのではないかといった無力感を抱くことがあります。こんな時代に、私たちが待ち望む「良い知らせ」は世界平和ではないかと思います。しかしこれだけではありません。環境破壊や地球温暖化を止めなければ人類はきれいな空気や水や食料や快適な気温が失われて、生きることができなくなるかもしれません。

聖書が語る良い知らせ

このような中にあって、聖書は力強く宣言するのです。マルコによる福音書1章1節にはこの福音書が証ししようとすることが短い言葉で見事に書き記されています。それは「神の子イエス・キリストの福音の初め。」という言葉です。それに続いて「神の子、イエス・キリストが来られる」と告げるバプテスマのヨハネのことが記され、彼の言葉が記録されています。ヨハネは神のもとに立ち帰ることを可能にする悔い改めのバプテスマを人々に宣べ伝え、ヨルダン川でバプテスマを授けました。

今日の御言葉が与えられて、私はこの1章1節が語る「神の子イエス・キリストの福音の初め」の「初め」という言葉に目が留まりました。キリストが人としてこの世に来られ、神に背く罪を贖ってくださったというマルコによる福音書の記事は「福音の初め」であるということです。

マルコによる福音書の一番最初の言葉「神の子イエス・キリストの福音の初め。」の言葉の意味は次のとおりです。「神の子イエス」とは、イエス様は人としてお生まれになりましたが、このお方は神の御子であるということです。私たちはイエス様を通して父なる神を知ることができます。そして私たちはイエス様を通してしか父なる神を知ることはできません。

「イエス・キリスト」とは、イエス様は「油を注がれた者」であるということを意味しています。人々を救うために立てられた王には神が守ってくださる徴として頭に特別な香油が注がれました。イエス様はキリスト、人々を救う救い主です。キリストはギリシア語の発音をそのままをカタカナ表記にしたものです。ヘブライ語では「メシア」と発音します。ヘンデルの有名な曲に「メサイア」というものがありクリスマスの時期には良く演奏されますが、この題名はヘブライ語の「メシア」を意味しています。

「福音」とは「良い知らせ」のことです。マルコによる福音書は、この書物が良い知らせの初めについて記した書物であることを記しています。

2節と3節にはイザヤ書40章3節と4節の言葉が引用されています。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」という言葉です。荒れ野とは荒涼としたところ、生きることが困難な場所です。これは今の時代でもあると思います。

私たちは先ほど司式者の言葉を通してバプテスマのヨハネの声を聞きました。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』という声です。この声の意味はバプテスマのヨハネが行ったことを知ることでわかります。

ヨハネは荒れ野に現れて「罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマ」を宣べ伝えました。人々は罪の赦しを求めていました。これは苦しい生活から逃れたい、快適な生活をしたいという願いではなく、自分たちが神に背いてしまったことを悔い改めて神のもとに帰りたいという願いです。神が赦してくださらなければ生きていくことができないという思いが人々の中にありました。

現代の人々は罪の赦しを求めているでしょうか。自己中心的で自分の利益を守り、利益を増やすことに一所懸命なのではないでしょうか。国は領土を守り拡大することを求め、人々は利権を守り拡大することを求めることしか考えない。このような考えに神を思い神に罪の赦しを求める意識などなさそうに思えます。しかし、実はどんなに利権を得ようとも、利益を増やそうとも、恐れからは自由ではないことを、誰でも知っています。その恐れから解放される道があるというのがヨハネの告げる言葉なのです。

「悔い改める」ということは「自己中心的な生き方は恐れから解放されることはない」ということを認めて、「神や人々を愛し共に生きる」ことを選ぶということです。人々は「ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けました」(5節)。これは、バプテスマを受ける人が神に背いていた罪を告白して神に立ち帰ることを願った後に、ヨルダン川に入ってヨハネから仰向けに水の中に沈められ、再び引き上げられるという儀式です。バプテスマのヨハネが授けたバプテスマは水によるものでしたが、イエス様が授けるバプテスマは聖霊によるものです。このバプテスマには「古い生き方の自分」が死に、そして神によって「新しい生き方の自分」に生まれ変わらせていただくことが意味されています。

私の証し

私にとっての本当の意味での「良い知らせ」を聞いたのは、初めて教会に行って、礼拝の中でイエス様のことを聞いた時でした。

それ以前の私は、自分の力を信じて社会に出たけれども力のなさを嫌というほど知らされ、しかも良いと信じていた生き方が否定され、力ある者に迎合し、利益になることを求め利益にならないことはしないという生き方がこの世の生き方だと思うようになってしまっていました。自分がしている仕事は自分でなくてもできる、自分などいなくてもこの世界は何も変わらないと思って希望のない日々を送っていました。

そんなある日、教会に行って礼拝の中でイエス様のことを聞いたとき、この人は自分と同じようにこの世界から拒否されている人だということを知ったのです。しかしイエス様は自分を拒否している人々のために。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈りました。そして私は「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5:39)という思いもかけなかった言葉を聞きました。

私はイエス様を知って、イエス様なら私の苦しみを知っていてくださるということを感じました。これが私にもたらされた本当の「良い知らせ」でした。私はそれからイエス様を求め、神を求めるようになりました。

新しく聞く「良い知らせ」

神の御子イエス様が地上に来られて、神の国は地上に現れました。そして神の国はこの世界の至る所に近づいています。この良い知らせはバプテスマのヨハネが伝え、それから後、多くの弟子たちが伝え続けています。

神の国は形がありません、あそこにある、ここにあるというものでもありません、いわば私たちの心の中にあります。その神の国は世代を超え、場所を越えて私たちに近づいています。「神の国」は「神の支配の領域」ですから、神の御言葉を聞き、それに従う人々はすでに神の国にいます。

世界に戦いが広がり、まるで闇に覆われるような状況になりましたが、私たちは今日、良い知らせを聞きました。この良い知らせは毎年繰り返されるものではありません。私たち自身も世界も変化しているからです。今日聞いた良い知らせは、「福音の初め」の言葉でした。すでにイエス様は来てくださり暗い闇の中に一条の希望の光を与えてくださいました。私たちは暗闇の中にいるのではありません。神が支配される世界にいるということをこの希望の光は私たちに示しています。

私たちはバプテスマのヨハネが告げた『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』という言葉を聞きました。私たちがするべき事は示されています。主の道を整え、その道筋をまっすぐにすることです。この荒れ野のような現代の世界において主の道を真っすぐにすることなど出来そうにありません。しかしすでに神の御子イエス様はこの世界に来て下さいました。そして御心にかなう人々に平和を与えてくださいます。私たちは闇の中に立ち尽くすのではなく、希望の光をかかげて平和を求めていくことができるのです。