12月24日クリスマス礼拝説教「救い主の誕生」

聖書 イザヤ書9章1~6節、ルカによる福音書2章1~14節

クリスマスを祝うことを躊躇する思い

私たちは今日、イエス様ご降誕の記念日であるクリスマスの礼拝を捧げるために集まっています。しかし、今の世界情勢を見ますとウクライナやパレスチナで戦争がおこなわれており、毎日何人もの人が死に、傷つき、住む所や建物が破壊されて多くの人々が命の危険を感じています。このような時にクリスマスをお祝いするためにここに集まっていることは良いことなのか、平和のために、あるいは住む所や食べ物がなくて困っている人たちのために働くことの方が大切なのではないかという思いを持ちながら参加しているかもしれません。外部の方の中には、教会がクリスマスを祝うことについて「こんな時にクリスマスをお祝いするとは何事か」と思っている人がいるかもしれません。

高齢になっていくことについても同じようなことが言えます。歳を重ねるにつれて体が思い通りに動かなくなり、あちこちが痛むようになります。物忘れもだんだんひどくなっていきます。このような中で、イエス様の誕生をお祝いすることに何の意味があるかと問う人々がいるかもしれません。これから先の人生には希望よりも諦めの方が強いと思うこともあるでしょう。

私たちは色々な問題を抱えています。いま抱えている問題が解決したらイエス様の誕生をお祝いしよう、病気が治ったらお祝いしよう、と考えることも分からなくはありません。私たちの日常にある問題が私たちを苦しめています。

希望を失う人生

平和のために働くことや貧しい人々のために働くことは大切なことです。体の痛みを少しでも軽くするように努力することも同じように大切なことです。しかしその働きや努力が徒労に終わるのではないかと思いつつ頑張るのでは、そのうちに気力も体力もなくなってしまうでしょう。平和は求め続けなければならないものですし、貧しい人たちもなくなるとは思えません。老いはますます自由を奪っていきます。人は希望を失ってしまえば動くことは出来なくなります。

イエス・キリストの誕生

希望を失って歩む人生、あるいは希望を失うのではないかと思いつつ歩む人生はイザヤが9章1節で告げた「闇の中を歩む民」でありましょう。食べ物も飲み水もないところにいなければならない人たちは「死の陰の地に住む者」だといえるでしょう。この人々にイザヤは「あなたがたは大いなる光を見、あなたがたの上に光が輝いた」(9:1)と告げました。この光こそ神の希望です。闇の中にある光は遠くからでも見ることができます。ちょうど灯台の光が海上にいる船に陸地を指し示すように、あるいは北極星が北を指し示すように、その光は神の希望を指し示します。

神の希望は人間の希望とは違って、失われることはありません。この預言が間違いのないものであることを示すために、神はイザヤを通して「ひとりのみどりごが私たちのために生まれた」(9:5)という言葉を与えました。まだ出来事が起きる前にすでに起きたように言うことこそ預言にふさわしい言葉です。

『そのみどりごの肩には権威があり、その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。…万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。』(9:5、6)。

このようなお方だからこそ、希望は決してなくなることはなく、私たちが無力であっても神が私たちの願いを聞き入れて平和の働きや弱い人と共にいるように支えてくださいます。人々は希望の光が灯されるという期待を胸にこのことを語り継ぎ、イエス様が生まれる時を迎えたのです。

イエス様の誕生の次第はルカによる福音書1章、2章に描かれています。先週はイエス様の母となるマリアに天使が現れて、男の子を身ごもることを告げる箇所が読まれ、私たちはそれを耳にしました。今日はイエス様の誕生の様子が描かれた箇所を聞きました。

イエス様は神の言葉、ロゴスが肉体を持って人として世に来られたお方です。ヨハネによる福音書1章1節に「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」という有名な御言葉があります。この言(ことば)が霊によってマリアに宿り、人となってお生まれになったのがイエス様です。そのお名前は「神は救い」という意味で、神が天使を通して告げた名前です。先週の礼拝で私たちはこれらのことを耳にしました。

キリストは名前ではなく称号です。旧約聖書の中ではメシアと書かれています。この称号は「油注がれた者」という意味で、まことの王を表します。現代の国の指導者は部下を戦わせて自分は安全なところで命令を出しますが、まことの王は危機の時には先頭に立って危機と対決します。一番危険な任務に就くので神の守りがあるように特別の油が注がれたのです。ですからキリストはまことの王として人々を救う救い主です。

ルカによる福音書は神の御子の誕生を歴史上の出来事として記しています。「皇帝アウグストゥスの治世に最初の住民登録が行われて、それぞれの者が故郷の町で住民登録を行い、イエス様の父母となるヨセフとマリアはダビデの町ベツレヘムに旅をして、そこでイエス様が生まれました」(2:1~5)

皇帝アウグストスは紀元前27年から紀元4年まで在位したローマの初代皇帝です。イエス様が生まれた場所は馬小屋でした。聖書には次のように書かれています。

ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(ルカ2:6、7)

この世にはイエス様の場所はありませんでした。それは、住み家を追われ泊まる場所のない現代の人たちと同じです。そしてまた、この世に自分の場所はないと思っている人たちと同じです。

神の言葉であるロゴスが人となったときに一番貧しいお姿でこの世に現れたということに、神の深い愛が示されています。神はすべての人を闇から救いたいと願っておられ、そのために生まれた子は一番貧しい人たちと同じになりました。

人間的な希望の潰(つい)える先にある神の希望

私たちがまことの平和を求めても、多くの国は軍事力に頼る平和を構築しています。まことの平和を求めて行動する人々の声はか細く、かき消されてしまいます。その人たちが平和のために取る行動は誰の目にも止まらないほどに小さなものです。私たちの声も行動も無意味に思えてしまいます。

そしてまた、私たちは歳を重ねていろいろな事ができなくなり、体のあちこちに不調を抱えるようになって、努力してもそれを元に戻すことはなかなかできません。歳を重ねるということは闇に向かうことのように思えてしまいます。

これらは人間的な希望は潰えるということを示しています。その先にあるのは何をしても無駄だという諦めであり絶望です。絶望は闇です。私たちが無力であることを認めた時に絶望の闇が訪れます。健康であっても戦争や環境破壊などを見聞きして未来に希望を持つことが難しくなっています。病気であれば尚更です。歳を重ねることは祝福ではなく呪いのように思えます。まるで私たちは闇の中を歩む民のようであり、死の陰の地に住む者のようです。

そのような闇の中にひとつの希望の光が与えられました。私たちの力ではどうにもならなくても、私たちのしていることは無駄に思えても、神は希望を与えてくださいます。そのしるしが飼い葉おけに寝っておられるイエス様です。私たちがその貧しさの意味するものを知るならば、神が忍耐強く私たちを救おうとなさっていることを知ることができます。

羊飼いに告げられた喜びの知らせ

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」(8節)

救い主の誕生はこの世で生きていようが死のうが誰も関心を持たない人々のところに最初にもたらされました。羊飼いはその象徴です。神は闇に住む民である当時の羊飼いに真っ先に救い主が生まれたことを告げたのです。これは神の愛が一番多く注がれる人たちとはそのような人々、この世に居場所がない人々であることを示すためです。羊飼いたちは安全な場所に居場所を持たない人々でした。救い主と羊飼いは「居場所がない」ことにおいてつながっています。

羊飼いたちは自分たちが神の良い知らせを最初に聞くような存在だとは思っていなかったと思います。彼らにとって生きることは死なないこと程度の意味しかなかったでしょう。その彼らの生活のただ中に神が介入されました。

天使は彼らに「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」と、救い主イエス様の誕生を告げました。「あなたがたのために」、つまり「私たちのために」イエス様はお生まれになったのです。付け加えるならば「私たちが希望を失わないために」イエス様はお生まれになりました。天使は「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」 と賛美の歌をうたいました。

私たちが希望を持ち続けるためにイエス様は生まれた

私たちが今日、イエス様の誕生を祝うのは私たちが希望を持ち続けるように希望の光が今も輝いていることを覚えるためです。そして神が希望の光を与えてくださったことに感謝するためです。世界が闇のようであったとしても、人類は滅亡へと向かっているのではないかという恐れを抱いているとしても、それでもなお希望を失わないように、神は希望の光を与えてくださっています。希望の光が今も輝いていることを思い出せば、私たちが絶望し立ちすくむのではなくて、困難で先の見えない未来であっても、立ち上がって進んでいくことができます。私たちが希望の光であるイエス様を心にいだいている限り私たち一人ひとりの声が小さくても、また行動が何の役にも立たないように見えても、あるいは自分の存在が何の役にも立っていないように思えても、神は私たちをお用いになって、この世の闇を打ち壊してくださるという希望をもってこれからも生きていくことができます。これがクリスマスの意味です。私たちはケーキを食べ楽しい音楽を聴きながら今日を過ごすのではありません。主イエス・キリストの貧しさを思って、その貧しさの中にある神の愛に感謝してクリスマスを祝うのです。