12月24日燭火礼拝説教「拝みに来ました」

聖書 ルカによる福音書1章26節~2章14節

マタイによる福音書1章18~25節

クリスマスを感謝

クリスマスおめでとうございます。教会では12月24日の日没から25日の日没前までをクリスマスとしてお祝いします。これは当時の一日の区切りが日没だったからです。時計のない時代にはわかりやすい一日の区切り方だったと思います。クリスマスはイエス・キリストの誕生を記念する日です。クリスマスという言葉は英語から来ていますが、英語のクリスマスはキリストを意味するChristと礼拝を意味するmasからできた言葉です。ですから今、私たちがおこなっている礼拝がまさにクリスマスです。

イエス・キリストについて

イエスは名前で、教会ではイエス様というように尊敬を込めて呼びます。そしてキリストは「油注がれた者」というヘブライ語のメシアのことです。ヘンデルの有名な曲に『メサイア』というのがありますが、メシアの英語での読みです。これはまさにキリストを讃える曲でして、第2部最終曲の「ハレルヤコーラス」は特に有名です。1743年のロンドンでの初演の際、国王ジョージ2世が、「ハレルヤ」の途中に起立し、それに続いて観客が総立ちになったという逸話があります。

さて、「油注がれた者」キリストというのは、「まことの王」を意味します。現代の国の指導者たちはたとえば戦争になった場合には一番安全な所にいて軍隊に戦わせるのですが、この「まことの王」は攻めてくる敵の最前線に立って相手と闘います。一番危険な場所にいて民を守るのが「まことの王」です。ですから民にとって「まことの王」は救世主、救い主なのです。

イエス・キリストというのは、ですから「救い主・イエス」ということを表しています。

キリストの救い

先ほどはルカによる福音書とマタイによる福音書から、イエス様の誕生前に天使が母となるマリアにイエス様が宿ることを告げたことと、その婚約者ヨセフにマリアが男の子を宿すことを告げたことが読まれました。

イエス様は聖霊によって処女マリアに宿ることが告げられました。これはいわゆるギリシア神話や日本の神話にある神と人間の女性とのあいだに子どもが生まれるというのとは違います。どう違うかと言いますと、イエス様は肉体をとられる前にも存在されていたお方だということです。ヨハネによる福音書はイエス様が世の初めからおられたお方であることを1章1節から5節に記しています。1章1節はとくに有名です。

「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」

この言葉とは神の言葉のことです。創世記1章に天地創造のことが書かれていますが、そこで神は言葉によっていろいろなものをお造りになったことが書かれています。たとえば1章3節に『神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。』という御言葉があります。神は言葉によって天地を創造されました。この神の言葉がマリアに宿り人間となられたのです。ですからイエス様は完全な人間としてこの世にお生まれになりましたが、完全な神でもあります。一人の完全な人間が完全な神であるというのは、なかなか納得できないことではありますが、このように理解しなければ人であるイエス様がこの世で私たちを救う働きをすることができたのかを理解することはできません。人が他の人を救うことはできないのです。人が人を救うという美談はありますが、それらはある特定の人やグループを救うと言ったものであって、すべての人を救うことがお出来になるのは神の他にはありません。

戦争や飢餓やいろいろな理不尽なことは私たち人間の身勝手や神に背く傲慢が起こしたことです。イエス様が生まれる前には、神はそれらの人間の傲慢を罰して、ご自分の許に帰るように促しましたが、人間は何度でも傲慢になりました。旧約聖書には人間の傲慢と神の裁きが記録されています。

しかし人間が悔い改めないために、神は究極のことをなさって人が救われる道をお開きになりました。神が人となり、神自らがすべての人の罪を贖うということです。イエス様によってこの救いの道が用意されたのです。私たちは神に背いていたことを悔い改めてイエス様の救いを信じることによって救われます。ヨセフに告げられた天使のお告げは『その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』というものでした。このイエスという名前は「神は救い」という意味です。名前にも神の御心が表されています。

一番弱い人々と共にあるイエス様

このことが実現したのはマリアがイエス様の母となったことによります。マリアは天使のお告げを聞いて『わが心は畏れ多い神を尊み、わが魂は救い主をほめまつりて喜ぶ』と言って神を讃えました。イエス様の父となったヨセフはマリアを迎え入れ、生まれたイエス様を守りました。

この喜びを最初に知らされたのは野宿をしながら羊の番をしていた羊飼いたちでした。この出来事は神さまが一番弱い人たちを、この世の中では存在を顧みられないような人たちを、心に留めておられるということを示しています。

今、がれきの中で食べ物や飲み水がなくて苦しんでいる人たちにイエス様は与えられました。神はどこにいるのかと問う人たちに神さまはこう答えるでしょう。

「我が子イエスはそこにいる。がれきの中に。」

イエス様は苦しんでいる人々と共におられます。その人たちの苦しみをご自分の苦しみとして担い、痛みを知り、ご自分の痛みによってその人々を癒しておられます。

私たちは弱くて苦しむ神、人となられた神であるイエス様を信じて、神を拝むためにここに集りました。私たちもまたイエス様から癒しをいただき、この希望が消えそうな世界の中にあって神の救いを信じて日々を送ってまいりたいと願います。