1月21日礼拝説教「悔い改めて生きる」

聖書 ヨナ書3章1~5,10節、マルコによる福音書1章14~20節

創立40周年に感謝

今年は創立40周年の年です。2024年度には記念会や記念コンサートや記念誌の発行などを計画しています。神さまがこの地に教会を建て、40年にわたって導いて来てくださったことを感謝したいと思います。40年はエジプトで奴隷になっていた民がモーセに率いられて荒れ野を旅した期間です。彼らの旅は厳しいものでしたがその旅の中で食べ物や水を与えてもらい神に養われました。私たちの教会の40年の歩みもそのようなものだったのではないかと思います。教会開拓の苦難や会堂建設の苦難、無牧師期間の苦労などがありながらも、いろいろと神の恵みを受けてきたことを思い起こし、神に感謝したいと思います。

本日私たちに与えられた御言葉はイエス様が公けの活動を始められた頃の出来事が記された箇所です。これを私たちの41年目の出発の言葉として聞きたいと思います。

悔い改めは生き方を変えること

イエス様はベツレヘムでお生まれになった後、ガリラヤのナザレ村で両親と暮らしました。ヨセフは大工でイエス様はその仕事を手伝ったと言われています。そして30歳の頃に家を離れてヨルダン川のほとりにいた洗礼者ヨハネのもとに行き、洗礼を受け、40日間の誘惑の試練を受けた後に、ガリラヤに戻り宣教の開始を告げられました。これがイエス様の公生涯の始まりです。

マタイによる福音書1章15節に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と書かれています。

イエス様の宣教の言葉です。この言葉はマタイによる福音書の中でここにしか書かれていませんが、イエス様はこの宣教の言葉を各地で人々に告げていたことだと思います。

イエス様は人々に悔い改めるように告げました。しかしユダヤの人々は唯一の神である主を信じていた人たちです。この人たちに悔い改めを告げるというのはなぜなのかという疑問がわいてきます。ユダヤ人以外の人々に対して悔い改めを告げるのであれば納得いくのですが、なぜユダヤ人同胞に向かって悔い改めを告げたのでしょうか。

これを理解するには当時のユダヤの状況を理解する必要があります。当時のユダヤはローマ帝国に支配されていました。ローマ帝国に協力する王や一部の特権階級のユダヤ人だけが優遇されるような状況で、多くのユダヤ人は貧しい状況に置かれていました。社会の底辺にいる人々は神殿で罪を赦していただくことも汚れを清めることもできずに、汚れた罪ある者とされていました。神を信じていても救われてはいなかったのです。そのような中にあって、人々は救い主を求めていました。そのような人々にイエス様は宣教され、福音を告げられたのです。

「時が満ちる」という言葉は救い主が現れたことを示しています。イエス様ご自身がこのことを告げるというのは意味が深いことです。イエス様はご自分の使命をはっきりと自覚していたことが伺えます。

「神の国」とは神がおられるところですから、神の独り子イエス様がおられるところは神の国です。そこでは人々に悔い改めの恵みが与えられます。貧しい人々だけでなく病人や心身の不自由な人々やすべての人が悔い改めて福音を信じることで神の前に聖い者にされると宣言されたのです。エルサレム神殿に参って高価な献げ物を献げることも苦しい修行をすることも必要ではなく、悔い改めて福音を信じることでそのような救いにあずかることができるというのは素晴らしい恵みです。

「悔い改める」とは<人々を見て人々に頼り、人とのバランスを考えながら生きる生き方>から、<神を見上げて神に頼り、人と調和して生きる生き方>へと生き方を変えることです。生き方を変えてくださるのは神であり、私たちは「生き方を変えることができるように」と祈ることによって生き方を変えることができるようになります。悔い改めは神の業です。

「福音」とは「神は私たちを愛し、決して見離さない。ご自分の独り子を救い主として世に遣わされて救いの業を行われた」という「喜びの知らせ」です。お金持ちも貧しい人も、健康な人も病気や心身が不自由な人も、思い煩う人も、そのほかどのような人も、悔い改めを祈って悔い改めさせてもらい、福音を信じるならば救われます。

神が私たちをご自分の許に召されるまで、私たちはこの世界で価値ある者として生きることが許されます。誰かが「お前はいらない」とか、「お前は汚い、あっちへ行け」と言って排除しようとしても、そのような言葉に煩わされることなく、神を見上げて神に頼り、人と調和して生きていけるのです。

イエス様の宣教の言葉はユダヤの人々にとって非常に大きな希望となりました。人々がイエス様の許に押し寄せたのは病気や心身の癒しという願いをかなえてもらうためであったかもしれませんが、この宣教の言葉は人々のその願いをはるかに越えています。

洗礼を受けて神と共に歩む生き方を選んだキリスト者であっても悔い改めて福音を信じなさいという言葉に耳を傾けなければなりません。生きることは現在進行形です。今も生き方を選び続けていますし、これからも選び続けます。ですからイエス様の宣教の言葉は生活の場に生きていなければなりません。私たちは悔い改めて神と共に歩く道を選び続けるのです。

洗礼を受けているということは、私たちが神のものになっているという約束を心にいただいたようなものです。キリスト者といえども迷いが起きることがあります。その時は「私は洗礼を受けている」と口に出して言うことが迷いから抜け出て神の道に進む力になります。すでに神がキリスト者を贖ってくださったのですから、どのように苦しいこと辛いことがあったとしても、神は決して見捨てることはありません。悔い改めを祈るならば、神は必ず悔い改めさせてくださり、<神を見上げて神に頼り、人と調和して生きる生き方>をさせてくださいます。

弟子たちの悔い改め

16節からは四人の漁師を弟子にした出来事が書かれています。イエス様はガリラヤ湖のほとりでシモンとアンデレの兄弟の漁師に出会い、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(17節)と二人を招きました。「人間をとる漁師」とは、苦しみの海の中にいる人間を救い出す漁師というイメージが適当かと思います。二人はイエス様の働きを助ける者として招かれたのです。

ここでこの出来事を黙想してみますと、まず最初にイエス様は15節の宣教の言葉を二人に語り、二人はイエス様の説く「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉を聞いて悔い改めたであろうと思われます。なぜかと言えば、18節の「網を捨てて従った」という言葉に鍵があります。というのはこの「捨てる」という言葉は原典では「解放する」とか「赦す」という意味があるので、「網を捨てて従った」というのは「生業(なりわい)を解き放って従った」という意味になるからです。生業を捨てて、イエス様と生きる生き方を選ぶというのは「悔い改め」です。

19節からはイエス様がヤコブとヨハネの兄弟の漁師に出会った時のことが書かれています。この二人もシモンとアンデレの兄弟と同じく、イエス様の宣教の言葉を聞いて悔い改め、イエス様の弟子となりました。そして「父ゼベダイと雇い人たちを舟に残して、イエスの後について行きました」(20節)。ここに書かれている「船に残す」の「残す」も実は原典では18節の「捨てる」と同じ言葉なのです。ですから「現在の家族関係を解き放ってイエス様について行った」という意味になります。

二組の漁師たちはそれぞれ生業(なりわい)を解き放ち、家族関係を解き放って、新しいイエス様との関係に生きることを選んだのです。これは「悔い改め」です。

旧約聖書のヨナ書が本日のもう一つの聖書個所として示されましたが、ここにも悔い改めが書かれています。本日読まれた箇所には預言者ヨナがアッシリアという大国の都ニネベに行って、そこに住む人々に神の言葉を叫んだことが記されています。ニネベの都の大きさを推定しますと、今日の東京の広さの8割くらいの、当時としては非常に大きな都でした。そこに住む人々の悪が神に届き(1章2節)、神はヨナに「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」(3章4節)と審きの言葉を語らせたのです。するとニネベの人々はヨナの言葉を聞いて「神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまといました」(3章5節)。これはニネベの人々が悔い改めたことを示しています。なぜニネベの人々がヨナの言葉を聞いて悔い改めたのかは書かれていません。このようなことが起きると到底思えないことですからこれは奇跡というほかありません。ニネベの人々が悔い改めたことで神はニネベを滅ぼすことをやめられました(3章10節)

悔い改めることで罪が赦され、救われます。悔い改めは神の業であり、私たちが「生き方を変えることができるように悔い改めさせてください」と祈ることによって、そのようにしていただくことができます。

二組の漁師が生活や家族関係を捨てたのは傲慢ではありません。それらはとても大切なものですが、イエス様の弟子として召命を受けるということはそれさえも上回る生き方だということを示しています。

教会の悔い改め

土気あすみが丘教会は創立から40年を数え、4月から41年目の歩みを始めます。教会が悔い改めるということについて考えてみたいと思うのですけれども、これは教会が新しい生き方を始めるということでありましょう。創立40周年記念はこの教会が40年間を過ごした、良かったというお祝いで終わらせるのではなく、教会が悔い改めて神の御心に沿う活動をおこなうきっかけにしたいと思うのです。なぜこのようなことをするのかと言えば、神の言葉は歴史を貫いて変わらないのですが、世の中が変化しています。その変化の中で教会が果たすべき役割が新たにされるからです。

この40年間に日本では高齢化が進みました。スマホのような携帯情報端末が普及し、人々は気の合う者同士としか交流しなくなってきました。これは分断が進んでいるということでもありますし、人と接することが苦手な人が増えているのではないかと思います。外国人労働者が増えてきて、京葉工業地帯や成田周辺では多くの外国人が住むようになりました。そのような変化の中で福音を伝えていくにはどのようにあるべきかを考えることが新しい教会の生き方につながると思います。礼拝の形式は今まで通りで良いのかどうか、これからそのような人たちが入ってこれるような礼拝はどうあるべきかということを考えていくということが私たちにとっての新たな悔い改め、新しい生き方になると思うのです。教会は変わることで新しくされていきます。そのことが神の御心に沿うことになります。

教会は神の目に価値高く、世になくてはならない存在

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という神の言葉は今も響いています。この教会にも響いています。この教会で<神を見上げて神に頼り、人と調和して生きる生き方>ということが実現できるように目指したいと思います。それは教会が悔い改めて生きるということです。教会は神の目には価値高い存在ですし、この世にとっても神の国を宣べ伝え福音を告げ知らせるという意味でなくてはならない存在です。その教会がこの世の状況の変化や人々の心の移り変わりに対応していくように変わっていくことを神は求めておられることと思います。すぐにできることではありません。私たちが現実に起こせることは小さなことですが、その小さな一歩が神の御旨に沿う方向に動いていくのです。私たちの41年目の歩み、そしてその先の歩みをこのような形で進んでいきたいと思います。