2月4日礼拝説教「神に望みをおく」

聖書 イザヤ書40章28~31節、マルコによる福音書1章29~39節

講壇交換と研修のこと

先週は西千葉教会との講壇交換で真壁先生がこちらで説教をしてくださり、私は向こうで奉仕をさせていただきました。毎年2回の講壇交換礼拝をすることによって姉妹教会がきずなを保ち続けることができるのは素晴らしいことです。この伝統は今後も続けられることだと思います。私は西千葉教会でマルコによる福音書1章21~28節に基づき、土気あすみが丘教会の40年の歩みを神が導いてくださったことを証させていただきました。

また先週、私は月曜日午後から木曜日午前中まで静岡県裾野市の黙想の家という施設でリトリートに参加しました。本日の週報裏面の『牧師室より』に簡単な報告を書いていますのでお読みいただければと思います。土気連絡会の時に真壁先生が「土気あすみが丘教会はいいですね。研修に行かせてくださるんですね」とおっしゃっていました。研鑽を積む機会を与えていただき有難うございました。

イエス様の癒し

さて、本日はマルコによる福音書1章29節から39節とイザヤ書40章28節から31節が与えられました。

イエス様一行はカファルナウムでシモンとアンデレの家に行きました。シモンは後にイエス様からペトロと呼ばれるようになります。岸辺にはガリラヤ湖で漁をするための舟が並んでいたことでしょう。ガリラヤ湖で取れる名物の魚はティラピアという魚だそうです。ペトロが釣り上げて、その口に銀貨1枚があったことが聖書に書かれていますが、その魚がティラピアだそうです。

イエス様一行はシモンとアンデレの家に行こうとして歩いている時に、人がやって来てシモンのしゅうとめが熱を出して寝ていることを伝えました。わざわざ伝えに来たのですからきっと高熱だったのでしょう。

イエス様は家に入ると、しゅうとめのそばに行き、手を取って起こしました。すると熱が下がり、彼女はイエス様一同をもてなしました。イエス様がなさったことは医者のように容態を見て病気の原因を探り、薬などの必要な処置をしたというのではなく、そばに行き、手を取って起こされただけです。福音書はしゅうとめの癒しをあっけないほどの簡潔さで記しています。

この出来事を黙想してみますとと、1章15節のイエス様の宣教の言葉が思い浮かびます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という宣教の言葉です。この言葉については1月21日の礼拝で、「キリストが神の子としてこの世界に突入して来られて神の国が近づいた。だからあなたたちは人を見るのではなく神の方に向き直って、神の救いを信じなさい」ということであることを教えられました。「悔い改める」とは「人を見るのではなく、神の方に向き直って神を見る」ことで、悔い改めて福音を信じるならば、人は新しくされるのです。

「シモンのしゅうとめはイエス様に出会い、悔い改めて福音を信じました。そのことによってシモンのしゅうとめは癒されました」。こう考えることは決して飛躍した考えではありません。14節から今日の箇所までを続けて読めばこのような黙想に至ります。イエス様の言葉には権威があります(1章22節)。汚れた霊は追い出され高熱の病人は癒されます。

夕方になってシモンとアンデレの家には病人や悪霊に取りつかれた人々が大勢集まりました。「夕方になって」というのは明るいうちは病人や悪霊に取りつかれた人々を外に連れ出すことがはばかられたということでしょう。しかしイエス様が病気を癒されたと聞いて、人々はそのような人たちを連れてきたのです。「町中の人が戸口に集まりました」(33節)。そしてイエス様はそこで大勢の人々を癒しました。イエス様の宣教には癒しが伴っています。それも具体的な病や心身の癒しです。神の言葉を聞いて受け入れる人には癒しが訪れます。

教会が行う宣教を考える時にもこの出来事は私たちに良い示唆を与えます。神の言葉を聞いて受け入れるならば癒しが起きます。癒しを行われるのは神ですから、その時を待つことは必要ですが、癒しが起きるということを私たちは知るのです。

このシモンのしゅうとめやカファルナウムの人々の癒しの出来事の後、イエス様はガリラヤ地方一帯の宣教に出かけられます。イエス様は朝、暗いうちから起きて、人里離れた所で祈っていました。イエス様はいつも祈りによって父なる神の御心を求めています。イエス様の宣教はこのようにしてガリラヤ中に広がりました。

人々は癒しを求めてイエス様のいるところに集まりましたが、それは御言葉を求めるということと同じです。癒しは神の業であり、聖書の御言葉は神の言葉です。神の言葉が発せられると悔い改め(神への向き直り)が起こり、そのことによって癒しが起きるということを私たちは忘れないようにしたいと思います。

私たちは病気にならなくても、ちょっとしたことで不仲になったり、争いに巻き込まれたりします。そのような時に人を見るのではなく神を見上げるならば癒されるでしょう。困難な状況が起きた時に、うつむくのではなく神を見上げるならば、やはり癒されるでしょう。

弱った民に告げられるイザヤの言葉

その神とはどのようなお方なのかを預言者イザヤは語っています。イザヤ書40章28節から31節に聞きたいと思います。

預言者イザヤは「あなたは知らないのか。聞いたことはないのか。」(28節)と私たちに問います。この問いは「あなたがたは知っているし聞いている」と私たちに厳しく迫る言葉です。イザヤは私たちが何を知っており、聞いていたのかを私たちに思い出させます。イザヤの言葉に従って、主なる神はどの様なお方であるのかを確認しましょう。

主は、とこしえにいます神。(28節)

私たちの主はとこしえにおられます。とこしえにおられるということは今もおられるということです。昔、神が世界を創造し、その時から世界は神から与えられた規則に従って神なしに動いているというものではありません。主は今もお働きになっておられます。

主は、すべてのものの造り主。(28節)

私たちの主はこの世界のすべてをお造りになりました。主によらずに存在するものは何もありません。主はご自分に敵対するものも支配しておられます。この世界が存在しているのは主がおられるからです。

主は、倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。(28節)

私たちの主は働いておられます。私たちが寝ている時も、私たちの手が及ばないような、深海の底でも、ミクロの世界でも、灼熱の砂漠でも、宇宙でも、主は働いておられます。その英知を人間がすべて知ることはできません。

主は、疲れた者に力を与える。勢いを失っている者に大きな力を与えられる。(29節)

私たちの主は私たちとの関係を断ち切ることはありません。私たちをお造りになって、後は勝手に生きろ、とは言われません。疲れた人や勢いを失っている人に力を与えます。主はそのような人に御言葉を与えてくださり、その御言葉は実現します。ここに希望があります。人は希望なしに力を出すことはできません。御言葉に支えられて人は力を得るのです。

若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れよう。しかし主に望みをおく人は新たな力を得る。鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(30,31節)

老人は確かに体力も知力も落ちてきています。イザヤが「主に望みをおく人は新たな力を得る。」と告げている根拠は何でしょうか。主に望みを置いても体力も知力も回復することはありません。すなわち、この新たな力とは霊であります。私たちの霊が新たな力を得ると告げています。体力や知力が衰えてきても霊は強められます。

老人になると世話をしてもらわなければならなくなります。そしてそのことを恥ずかしいとか恥だと思ってしまいます。このとき霊が弱っています。いままでできていたことができなくなることは悲しいことです。尊厳をなくしたように感じます。家族にとってはその人が元気だった頃の記憶があるのでいろいろな事ができなくなっていく姿を見るのは悲しいものがあります。

老人だけが力を失っているのではありません。若者も壮年もくたびれています。未来に希望を持てなくなり、部屋に閉じこもってしまう人が増えているそうです。

しかし主に望みをおく人は新たな力を得ることができます。これから先の人生に希望が持てなくても、主はこの世界を造り治めておられる方だ、主の英知は人間が考えるようなものではなくてとてつもないものだ、ということを信じるならば、人は生きる力を回復します。

霊が強められれば、赤ちゃんの時には誰でも世話をしてもらっていたことを思い出すでしょう。成長して一人で何でもできるようになったと思うようになっても、実は神に支えられていたということを思い出すでしょう。高齢になって支えてもらわなければならなくなったのではなく、私たちはこれまでもいつも支えてもらっていたのです。霊が強められれば、世話をしてもらうことを恥と思わなくなります。

このことをお示しになったのが神の御子イエス・キリストです。イエス様が私たちに神は愛であり、いつもそばにいて導いてくださっていることを言葉と行いで教えてくださいました。

神の子イエス様が恥を受けられました。罵(ののし)られ、嘲(あざけ)られ、唾を吐きかけられ、打たれ、そして十字架で神に見捨てられて罪人として死なれました。イエス様は今も私たちの恥を受けてくださり、執り成してくださっています。このイエス様が言われます。「悔い改めて、福音を信じなさい」と。この言葉を受け取りましょう。そうすれば私たちは癒されます。シモンのしゅうとめやカファルナウムの病人が癒されたように、私たちも癒され、霊は鷲のように翼を張って神の国へと上っていくでしょう。

神に望みをおく

神は力強いお方です。このお方の支えがあることを私たちは再び、聞いて知りました。神の御子イエス様は「宣教し、悪霊を追い出されました。」(マルコ1:39)。宣教の言葉を聞いて受け入れ、神を見い出すならば人は癒されます。自分は駄目な人間だと思い込む罪や世の誘惑によって、主の力を信じられなくなりそうになっても「主に望みをおく人は新たな力を得ます。」