聖書 列王記下2章1~12節、マルコによる福音書9章2~9節
降誕節最後の主の日として
教会の暦では今週の水曜日の2月14日から受難節が始まります。この日からイースター前日の3月30日まで、教会ではイエス様の受難を思い起こし、悔い改めて神に帰る機会としています。
今日は降誕節最後の主の日です。クリスマスから始まった降誕節の礼拝では、主にマルコによる福音書をもとに、イエス様のご降誕から、博士の訪問、神殿詣で、宣教の開始、弟子の召命、癒しの業の出来事を通してイエス様の足跡を辿ってきました。マルコによる福音書の記事は2章から10章まで、イエス様がエルサレムに入られるまでの各地でのイエス様の教えや出来事を記しているのですが、そのすべてを降誕節の期間の礼拝で読むことはできません。もしお時間がありましたらこの箇所を読むことをお勧めします。今日は降誕節最後の主の日の礼拝としてイエス様の本当の姿を神がお示しになった箇所を味わいたいと思います。
イエス様の本来のお姿
先ほど読まれたマルコによる福音書9章2節には「六日の後」という言葉が書かれています。まずは六日前にどのような出来事があったかを確認したいと思うのですが、8章27節から29節の言葉と31節の言葉を見てください。
8章27節から29節にはイエス様が弟子たちに「人々は自分のことを何といっているのか」と訊ね、弟子たちが「人々はバプテスマのヨハネだ、とかエリヤだと言います」と答える場面が記されています。
エリヤは先ほど読まれた列王記下2章に書かれているエリヤのことです。先ほどは長い文章を読んでいただきましたが、ここには火の馬に引かれた火の戦車が現れてエリヤが嵐の中を天に上っていったことが書かれていました。エリヤは死んだのではなく天に上げられた人なのです。当時の人たちはエリヤは天に上げられたのだから再びやってくると信じていました。そしてバプテスマのヨハネはエリヤの再来だと噂されていました。弟子たちはこのことをイエス様に答えたのです。
さらにこの箇所にはペトロが「あなたはメシア、すなわち救い主キリストです」と告白したことが記されています。イエス様はそのことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた後、「多くの苦しみを受け、人々から排斥されて殺され、三日の後に復活することになっていることを教え始められた」(31節)と記しています。
弟子たちを含めユダヤの人々は救い主キリストはユダヤを解放してくれるお方だと信じていました。ユダヤの人々は古い昔から外国の支配のもとで苦しんできており、今はローマ帝国の支配から解放されたいと願っていたのでした。ですから救い主キリストはユダヤ人を結束させる強くて聡明な人でなければならなかったのです。人々はイエス様がその人だと期待しました。弟子たちはイエス様が人々に排斥され殺されるなどということがあってはならないと考え、さらに三日目に甦るなどということを信じることなどできなかったでしょう。現代の人々がこのことを聖書を読んで知ったとしてもやはり弟子たちと同じように信じることができないと思います。
「六日の後」とはイエス様が弟子たちにご自分の死と復活を予告した六日後ということです。この間、イエス様は救い主キリストと受難との関係を弟子たちに教えていたことでしょう。弟子たちは六日にわたって、このことをイエス様から聞きました。
そうして六日が経ちました。イエス様はペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られました。するとイエス様の姿が変わったのです。服は真っ白に耀きました。このイエス様の姿が変化したことは六日間の弟子たちへの教え、すなわち救い主キリストは苦しみを受け3日目に復活するという教えの最後の仕上げということができるでしょう。
ここでイエス様の変化は受け身の表現で書かれていて、ご自分で変化したのではなく神によって変えられたことが示されています。岩波訳聖書では、「彼らの面前で彼の姿が変えられ、彼の衣はみごとに光り輝く白色になった」と訳されていてイエス様の様子が神によって変えられたことがはっきりわかるように書かれています。
そこにエリヤとモーセが現れました。そしてイエス様と語り合いました。弟子たちはその様子を見ています。ペトロはこの出来事に感激して、興奮して、何が何だかわからないままに「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(5節)とイエス様に言いました。ペトロはこんなふうに思ったことでしょう。「ここは素晴らしい場所だ、エリヤとモーセとイエス様がいる。ここにずっと居たい。この世には苦しみが多いが、この場所は神聖で平安に満ちている」。こんな思いだったのだと思います。人は誰でも理想郷を求めます。ユートピアがあるならそこに行きたいと思います。ペトロにはこの場所こそ理想郷だと思えたのです。そしてそこにずっと居たいと思ったのです。ペトロは本当に私たちの代表のようです。
ペトロが興奮して、何が何だかわからない状態になっており、弟子たちが非常に恐れた時に、雲が現れました。雲は神がおられることの象徴です。雲は弟子たちを覆い、雲の中から声がしました。
「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(7節)
弟子たちに対して神がイエス様を明らかにしたのです。イエス様が救い主キリストであることはペトロが告白している通りですが、そのお方は神の子であり、神はイエス様を愛しておられる。それがイエス様であることが神の言葉によって弟子たちに示されたのです。人々に排斥され殺されるイエス様が救い主キリストであり、神の愛する子であるということは人間の常識では考えられません。しかも死んで三日目に甦るなどということはあり得ないことです。しかし神の声によってこのことが現実に起きることが示されました。
さらに神は「これに聞け」と言われました。弟子たちにはいろいろな声が聞こえて来ることでしょうが、神は「私の愛する子、イエスに聞きなさい」とはっきりと示されました。世の中に苦難が多く、人生に苦しみが多くて、いろいろな事を言う人が現れます。ニュースには犯罪や災害などのことが多く報道されます。世界は滅亡に向かっていると言う人々もいます。このような言葉のどこに希望があるでしょうか。どこにも希望は見い出せません。
神の愛の大きさを知る
イエス様が捕らえられて裁判にかけられ死刑を宣告され、そして十字架で死ぬという出来事が起きる前に神が自らイエス様をご自分の愛する子だと弟子たちに啓示されたことには大きな意味があります。それは、神は人間を見捨ててはいないということです。愛する子を人としてこの世にお遣わしになって、その人イエス様を身代わりにして人々を救うことを実行されるほどに人間を愛しておられるのです。
イエス様の言葉に希望があります。生きる道が示されています。私たちはこの世の出来事を理解するために、また自分自身を知るために、イエス様の言葉を聞くことが必要です。そしてイエス様の言葉を聞くならば私たちは誤りなく神の国への道を歩いて行くことができます。
まことの人でありまことの神であるイエス様
有名サン・テグジュペリの『星の王子さま』の冒頭にはこんな話があります。主人公の「わたし」は少年の頃に『本当にあった話』という本を読み、そこに大蛇ボアが猛獣を飲み込もうとしている絵を見て想像をふくらませました。そして少年は像を丸のみにした大蛇の絵を描いて大人に見せたのです。しかし大人はみんな帽子の絵だと答えました。誰もこの少年が描いた絵の本当のことはわかりませんでした。
イエス様は完全な人間でした。こんな言い方は変なのですが、イエス様はマリアから生まれた人間なのです。しかしその本質は神の愛する子であり救い主キリストなのです。このことを神は自らの声で弟子たちに示されました。
歳を取って動けなくなったり喋ることができなくなるのは辛いことだと思います。しかしとっても良いことがあります。それはイエス様に聞くということに専念できるようになるということです。もはや自分のことでさえ世話をしなくて良くなりイエス様の言葉を思いめぐらす時間が豊富にできます。こう考えるのは弱い者の強がりと言う人がいるかもしれません。しかし神が言われるのです。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(7節)と。この神のご命令を実行できるようになるということは誰かに誇ることではなく、感謝なことです。何もできないのではなく、イエス様の言葉を聞くことができるようになるのです。
弱さこそ人の強さ
これからイエス様は十字架に向かわれます。イエス様の人生は誕生から弱い者として歩まれた人生でした。この徹底的に弱い者として生きたイエス様が私たちを救ってくださるお方です。弱さは恥ではありません。イエス様の言葉に聞き従うならば、弱さこそ人の強さであることを知ることができます。強い者が救い主であると考える意識は現代でも根強く残っていますが、イエス様はすでにそれをご自身の十字架によって打ち壊されました。それを知らない者たちが最後の抵抗をしているのです。
私たちは弱さを恥と思わず、イエス様が神の愛する子であることを心に留めて、イエス様の言葉に従って神の国への旅路を共に歩んでまいりましょう。