2月25日礼拝説教「主に従う心強さ」

聖書 創世記17章1~7節、マルコによる福音書8章31~38節

主に従う喜び

今日は礼拝後に2月教会総会が開かれます。創立41周年目の歩みを話し合う貴重な時としたいと思います。この日に「私に従いなさい」というイエス様の言葉が与えられました。

『主に従うことは』という讃美歌があります。讃美歌21の507番です。子ども讃美歌にもあって多くの人に愛されています。歌詞を紹介したいと思います。

1番は、「主に従うことはなんと嬉しいこと。心の空 晴れて光は照るよ。」
2番は、「主に従うことはなんという幸せ。悪い思い消えて心は澄むよ。」
3番は、「主に従うことはなんと心づよい。恐れの陰消えて力は増すよ。」

そして繰り返しで、「主のあとに続き共に進もう。主のあとに続き歌って進もう。」と歌います。この讃美歌は主に従うことがどんなに素晴らしいことかを歌っています。

しかし本日与えられたマルコによる福音書8章31節から38節ではイエス様が受難を予告した後に、弟子たちに「私に従いなさい」と命じたことが記されています。受難の主に従うとはいったいどういうことでしょうか。御言葉に聞いてまいりたいと思います。

私に従いさないと命じるイエス様

34節 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

イエス様はご自分の受難を予告し、それを諫めたペトロを叱って、このように言われました。「自分を捨てる」とは「神を知らずに自己中心的な生き方をする生き方を否定する」ことです。それは洗礼を受ける前の私たちの姿であり、あるいは洗礼後にも罪の誘惑によって私たちが陥ってしまう姿です。

「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」はとても有名な聖句で暗記している人が多くおられることだと思います。今までの生き方を否定して自分の十字架を背負うことを今すぐにしなさいというイエス様の強い思いを表しています。

自分の十字架とは私たちに与えられているこの世の使命です。どんな人にも使命があります。それは生きる意味と言い換えても良いものです。使命とは何かをすることだけではありません。何もしないけれども居るという使命がある。なぜなら主なる神が生かしておられるから、私たちが生かされているからです。イエス様はそのような使命を捨てることなく背負い続けよ、と命じています。

31節はイエス様の使命を示しています。イエス様に従うとは31節のイエス様の受難を私たちが受けることではありません。人にはそれぞれ違う使命が与えられています。イエス様が「私に従いなさい」と言われているのは私たちも自分の使命を果たしなさいということです。

35節 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。

「自分の命を救いたいと思う者」とは34節で言えば「自分を捨てない者」、すなわち「神を知らずに自己中心的な生き方をする者」です。あるいは「神を知っていても従わない者」です。その者は「命を失う」と言われます。これは「魂を滅ぼす」と訳した方がわかりやすいかもしれません。「死ぬ」というのとは違います。

イエス様は、他者がどうなろうと関係ない、自分が良ければそれでよいという生き方は自分の魂を滅ぼすと言われます。自分が良ければそれでよいという人には心からの交わりが与えられません。それはいわば孤独です。どれだけ取り巻きがいても心を許すことができる人がいなければ安心はできません。いつ自分が事故や不幸に見舞われるか分からないという不安を抱え続けています。それは魂を滅ぼしていることになります。

逆に「わたしのため、また福音のために命を失う者」とは34節の「自分の十字架を背負ってわたしに従う者」です。自分の十字架、すなわち自分の使命を知っている人はいませんが、それそれの生活の場で主を賛美して精一杯生きている人は使命を果たしている人だと言えます。

その人たちは苦しいことが起きても投げ出すことはありません。祈って主の助けを求めつつ、忍耐して使命を果たします。その人々は自分の魂を救うのです。すなわち苦しみがあっても忍耐しながら喜びのうちに過ごすことができます。これこそ命が輝いているということです。外見は苦しみの人生に見ていても内面は喜びにあふれ、輝いています。それは「命を救う」ということです。

アブラハムとの契約

創世記17章で神がアブラハムと結んだ契約は「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。あなたは多くの国民の父となる。わたしはあなたとあなたの子孫の神となる。」(創世記17章1~7節)でした。この契約は永遠の契約ですからイエス様の時代も現在もこの契約は続いています。神は私たちの神となることを約束されています。そして人間は主に従って歩む者とされました。現代の私たちはこの契約の当事者です。私たちが主に従って生きるならば、使命を果たすことができ、そのことによって外見的には苦しんでいるように見えても、心は讃美歌507番の歌詞のように光が照り渡り、澄み渡り、恐れの陰が消えて心強くあります。イエス様の受難も外見あるいは肉体的な面と、内面の違いに目を向けるならばイエス様が自分に与えられた使命を果たしていくことだということがわかってきます。

36節 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。

人はこの世のすべてを自分のものに出来たらどんなに良いかと夢想することがあります。それが最高の栄誉のように思えます。しかし実は手に入れていないものがあります。それは豊かな交わりであり、愛です。人のやさしさです。これらものは力やお金では手に入りません。人が一番必要としているものはそのようなものです。

37節 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

どうすれば命すなわち魂を買い戻すことができるでしょうか。それは今までのイエス様の言葉を振り返れば明らかです。イエス様はその答えをそれぞれの人が見つけるようにと促されます。そしてこの世の力やお金といった偶像では魂は買い戻せないということをお示しになりました。

38節 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

イエス様が再び来てくださるまでの終末の時(イエス様が来られてから再び来られるまでの時)は信じる者たちと共にイエス様がいてくださる時であるとともに、まだ神の国が完成していない時です。そのような時をイエス様は「神に背いたこの罪深い時代」と呼びます。今もその時です。もしイエス様とイエス様の言葉を恥とするならば、イエス様が再び来られる時にその人はイエス様から恥を受けるでしょう。なぜならその人は魂を滅ぼしていて、「神のことを心にかけず、人間たちのことを思っている」からです。

竹内英子さんのこと

『牧師室から』に詩人の竹内英子さんの詩「神の力」を紹介しました。竹内さんは日本が戦争を始める直前の1924年に満州で生まれ、小学生の頃に難病の多発性関節リウマチを患いました。1945年の敗戦後に苦労して引き揚げて来ました。彼女は50年以上ベッドでの生活を送り、1986年に天に召されました。何のために生まれてきたのかという問いに答えてくれたのは聖書でした。そして彼女を支えていたのは神の御言葉でした。人間とは不思議なものです。自分では価値がわからなくても神さまはご存知でその人にふさわしい働きを与えてくださいます。竹内さんは詩を通して証ししました。

私は弱くとも神は強く 神の力が私を支える
私には悲しみに耐える力がある それは神から出づる力である
「わが力 弱きうちに全うせらるればなり」

引用されている聖句はコリントの信徒への手紙二の12章9節「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」です。竹内さんは「私には悲しみに耐える力がある」と証ししています。彼女の外見は哀れを誘うようなものかもしれませんが、内面は力強いのです。その力は神から出てくる力なのです。彼女は命を輝かせていました。起きて元気に働くことができなくても彼女は使命に生きて、使命を全うしたのです。

使命の道

主に従うことは主の道を歩き使命を果たすことです。その道には主が共におられます。使命を果たすことはそれぞれの生活の場で主を賛美しつつその人に出来る奉仕することです。外見は苦しいことに見えるかもしれませんし、実際に苦しみを感じているでしょうが、それにも増して命が輝いています。主に従うことは心強いことです。