聖書 民数記21章4~9節、ヨハネによる福音書3章14~21節
揺り動かされないための備え
このところ地震が多く発生しています。いまのところ被害が出るほどのものではありませんが、千葉県の太平洋側の沖でゆっくりとした岩盤のすべり起きていて、それが地震を引き起こしているそうです。夜中に目を覚ますくらいの揺れがありますので、今のうちに家具を固定するとか、寝室や居間のものが倒れないようにしておくといった対策をしておくのが良さそうです。
それと心構えが必要だと思います。キリスト者にとっては、命は自分のものではないことが分かっていても、いざこのように地震が多いと心配です。これは生きている以上は当たり前の感情です。ですから心構えが大事だと思うのです。もし私たちが命の危険を感じてもしっかりとした岩の上にいるならば怖くても平安でいられるでしょう。
永遠の命に至る問答
本日与えられたヨハネによる福音書3章にはニコデモという最高法院の議員が、夜、イエス様のところに来て質問したことが書かれています。ユダヤの最高権力者たちは、イエス様が汚れた人たちと一緒に食事をしたり、安息日に労働と見なされている行為をするなどして社会秩序を破っていることを批判していました。ですから、ニコデモはイエス様の言葉や行いに不思議な力を感じていながらも昼間にイエス様に会いに行くことはできなかったのだと思われます。
ニコデモはイエス様に「あなたは神のもとから来られた教師であることを知っています」(2節)と言いました。イエス様はその言葉に対して「人は新たに生まれなければ神の国を見ることができない」(3節)と答えました。イエス様の言葉はいつも相手に何かを考えさせます。この言葉もニコデモには不思議に感じられたでしょう。彼自身が敬虔なユダヤ人として永遠の命を求めていたからです。そしてそれは律法を完全に行うことにあると彼は理解して努力していたはずです。ですからニコデモはその言葉に驚きました。そしてイエス様に「どうして生まれることができるでしょう。もう一度母親の体内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)と尋ねました。この質問はいささか常識外れの質問です。直截的に「人はもう一度生まれることなどできません」と答える方がイエス様の言葉に迫るように思います。しかしどちらの問いであっても質問の意図は同じです。その言葉に対してイエス様は「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(5節)と答えました。今度こそニコデモは「どうしてそんなことがありえましょうか」(9節)とイエス様の言葉を否定しました。人が再び生まれるということはあり得ないという常識が自由な発想を束縛していたからだと思います。
しかし実は、この理解に間違いがありました。ユダヤ人は自分たちが聖い者でいることができるように、律法を守ることができない人々を同じユダヤ人でありながら除け者にしていました。そのようにして自分が聖くあることが永遠の命に至る道だと信じていました。そのようなユダヤ人の一人であるニコデモにイエス様は「人は新たに生まれなければ神の国を見ることができない」と言われたのです。律法を守れない人々を排除する、その差別意識がなくならないかぎり、どんなに律法を完全に守っていても神の国に入ることはできない。イエス様はそのことを教えたのですが、ニコデモには理解することはできませんでした。
神を信じて永遠の命を得る
このことを理解しておけば、本日の御言葉をよく理解することができると思います。ニコデモの「どうしてそんなことがありえましょうか」という反発の言葉に、イエス様は旧約聖書の民数記に書かれている出来事を思い出させました。それは先ほど読まれた民数記21章8節と9節の出来事です。この出来事はイエス様が十字架にあげられるときのことを予告している出来事ですが、まずは民数記の出来事をお話しして、その後にイエス様の十字架との関係をお示ししたいと思います。
荒れ野の中で人々は雲の柱と火の柱に導かれて先祖の土地であるカナンに向かっていました。しかしそこは食料も水も乏しいところでした。極限状態の中で人々は神とモーセに逆らいました。21章5節の言葉を私の言葉にして言いますとこのようになります。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのだ。荒れ野で死なせるためか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまう」(5節)。こんな激しい言葉を叫んだのではないかと思います。すると主は炎の蛇を民に向かわせました。荒れ野にはさまざまな蛇がいて毒を持っているものもいます。毒蛇に噛まれると激痛に襲われ、長時間苦しんで死ななければなりません。
人々はモーセに「私たちは罪を犯しました。主に祈って蛇を取り除いてください」(7節)と願いました。人々は罪を自覚し悔い改めました。
モーセが民のために主に祈ると、主は「炎の蛇を造り旗竿の先に掲げよ」(8節)と命じました。それでモーセが青銅で蛇を造り、それを旗竿に掲げました。蛇に噛まれた人が旗竿の先の蛇を見上げると、その人は命を得た(9節)と記されています。
この出来事は「噛まれた人が旗竿の先の蛇を見上げるだけで傷がいやされて命を得た」ということではなく、「神を信じて旗竿の先の蛇を見上げて命を得た」ということです。蛇に噛まれた人々だけでなく、荒れ野の旅をしているすべての人々が見上げることで命を得ることができるものでした。
イエス様を見上げる
ヨハネによる福音書3章に戻りますが、「人の子もあげられねばならない」(14節)とイエス様が言われたことが記されています。この言葉はイエス様が十字架にかけられることを意味しています。モーセが荒れ野で蛇を上げて人々がそれを見上げた時に命を得ることができたように、十字架にかけられたイエス様を見上げた時に、人々は神を信じ、永遠の命を得るのです。イエス様は永遠の命を得るためには十字架で死なれるイエス様を見上げるようにと言われました。それは神を信じることへと人を向かわせ、人は神と共に生きることを決断して水と霊によって洗礼を受け、永遠の命をいただくのです。
聖書は、人の本来の姿は罪を持たない存在であり、神は人を祝福し、愛しておられる、ということを証ししています。それは創世記1章、2章に書かれていますし、預言者の書には神が人を救うために多くの預言者を遣わしたことが書かれています。イザヤ書52章、53章には苦難のしもべとしてイエス様のことが予言されています。52章13節には「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。」と書かれています。十字架につけられ苦しんで死なれるイエス様は、「はるかに高く上げられ、あがめられる」お方なのです。
「神はその独り子を世に与えてくださった」(16節)のです。神に逆らい滅ぼされるはずの人間のために。なぜそこまでするのか。神は人を愛し、アブラハムやノアと結んだ契約を永遠に守っておられるからです。神は人が自分たちで作りあげたものを拝んでいることをお許しにはならないけれども、どんなことをしても人を本来の姿に戻したいとお考えです。
この礼拝堂にも十字架があります。私たちはこれを見上げています。十字架はイエス様が私たちを救い出してくださったことのシンボルです。私たちはこの十字架を見上げて、神を信じる信仰を堅くして、永遠の命をいただくのです。信じる者はすでに生と死を越える永遠の命をいただいています。
世の光であるイエス様はすでに世に来ました(19節)。そして死からよみがえり神の右におられて永遠の大祭司として私たちのために執り成しをしておられます。このことを信じようとしない人は光ではなく暗闇を愛しています。光を憎み、光のところに来ようとはしません。しかし復活のキリストはその人たちのためにも執り成してくださっています。神の愛から漏れる人はいません。だから一日も早く光のところに来ていただきたいのです。そうすれば心の苦しみから解放されます。人々と仲良く過ごすことができるようになります。神を信じればそのようにしていただけるのです。そして永遠の命を得ることができます。その人は死んでも生きるのです(ヨハネ11:25)。
地震で死ぬのは恐いです。火事にも交通事故にも遭いたくはありません。突然、余命を宣告されることを考えると不安でいっぱいになります。本当にそのようなことになれば、それ以後をどのように過ごせばよいか分からなくなります。世界を見ていると、いつ紛争や戦争が起こって巻き込まれるかと心配です。
しかし、十字架のイエス様を見上げて神を信じ、真理を行っているならば、つまり神の言葉に従って生活しているならば、その人は光である神のところに来ます。その人は永遠の命を得ているのですから、死を恐れることはありません。私たちが行う事柄が神のうちにあって為されるように祈りつつ行うならば、その行いは人知れず行ったものであっても主なる神のもとで明らかにされます。この世界のものは岩盤も揺り動かされますが、主の岩の上に立つ人は揺り動かされることはありません。
十字架につけられて私たちを救い、永遠の命を与えてくださったキリストをたたえましょう。神を信じ、この世の何ものにも揺り動かされず、惑わされない人生を、共に喜んで進んでいきましょう。