聖書 ヨハネによる福音書20章19~31節
教会創立40周年
創立40周年の礼拝をここに献げることができますことを皆さまと共に神に感謝します。1984年4月に西千葉教会土気集会として始まった土気あすみが丘教会は今日まで40年間この地で主の御言葉を宣教し、主にある交わりを豊かにしてきました。この教会の会員や会員家族など、教会とかかわりを持った人で天に招かれた人たちは27人います。昨年は天に2人の姉妹が加わりました。天のまことの聖所でも創立40周年を祝っていることだと思います。
人にも教会にも危機が訪れる
今、40周年記念誌を編集していますが、最初の25年間で会員数は50人になりました。これはあすみが丘団地に多くの人々が居住するようになったことがひとつの要因ですが、毎月1万枚のチラシを印刷して新聞販売店に持ち込み新聞折り込みチラシとして配布するといった宣教の努力と礼拝の充実とによって会員数や礼拝出席者数の著しい増加を成し遂げたのです。教会員は他教会を支えるという第一種教会の幻を見ることもできました。しかし教会は順調に成長し続けたわけではありません。大きく4度の危機に瀕しました。人間のように年齢で譬えると教会は9歳の時に最初の危機を迎え、16歳の頃には教会が分裂の危機に瀕し牧師も何人かの会員も去っていきました。そして新会堂ができた直後の26歳の時には信頼関係が揺らいでしまいました。最後の危機は37歳から38歳の時に、すなわち2020年からのコロナ感染症の中で天に召される方が増えて教会の衰えを感じました。教会は2023年にコロナ感染症が5類になり行動を自粛しなくてよくなるまで苦しみました。成長の過程で苦しみを経験しなければなりませんでした。
復活のイエス様が来てくださる
4度目のコロナ感染症の危機を除いた残り3回の危機について、これを本日与えられたヨハネによる福音書の御言葉によって捉えるならば、教会にイエス様がいなくなった時だったと言えるでしょう。19節の弟子たちがユダヤ人を恐れて家の中に閉じこもっているような状態であったと思われます。もちろんこの教会の危機は弟子たちのような外部からの脅威によるものではなく、内部の問題であったわけですが、本質は同じだと言えると思います。
恐れていた弟子たちのところに復活のイエス様が来て真ん中に立たれました。そして「あなたがたに平和があるように」と言われました。この言葉はユダヤの挨拶の言葉ですが、この時の弟子たちにとっては救いの言葉だったことでしょう。その言葉は「恐れることはない。安心しなさい」と言っているように弟子たちには聞こえたはずです。この言葉で弟子たちは安心しました。イエス様はさらにご自分の手とわき腹を見せて、確かにご自分であることをお示しになりました。このときイエス様の手とわき腹にしるしがあることが弟子たちを喜ばせました。弟子たちはきっと「イエス様だ。本当にイエス様がよみがえったのだ」と大喜びしたことでしょう。
弟子たちは恐れの状態から解放されて、再び生きる者に変えられました。復活のイエス様が彼らに力と希望を与えました。土気あすみが丘教会が危機にあったとき、「教会は存続が危ぶまれるほどの多くのものを失った」という記録があります。しかし主は土気あすみが丘教会を見捨ててはおかれませんでした。その時々に主は助け手を与えられました。苦難を経て復活した教会の姿を見たある方は次のような言葉を寄せています。『「この開拓伝道は私の業である。あなたがたは私が示す幻を見なさい。逃げてはいけない。わたしの道を行きなさい」と何もできない私に神様はいつも備えた道を示して来られた。』という言葉です。
主が私たちに近づいてきてくださるのです。教会が弱り果て主を見失っている時に、主の方から近づいてきてくださいました。そのことによって教会は主にある一致を取り戻し信頼を回復しました。
かんじんなことは目に見えない
ディディモと呼ばれるトマスの疑いは人間であれば誰でも持つ疑いであろうと思われます。復活のイエス様が来られた時、トマスはそこにいませんでした。そこで彼は他の弟子の証言を信じることができずに「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言いました。確かに私たちの会話では要領の悪い話を聞くよりも見た方が分るということがたまにあります。
しかしこのことは本当でしょうか。「かんじんなことは目に見えない」という言葉があります。目に見えるものは見ることによってイメージをつかむことができるのですが、かんじんなものは目に見えないのです。たとえば、聖霊による信仰の一致ということを見ようとしても見ることはできません。地上で神の国を見ようとしても見ることはできません。しかしこれらは確かに存在します。私たちはそれを感じることができます。先日、ある方は、ここには暖かいものがある、と言っておられました。その方には主にある交わりの暖かさが伝わっていたのだと思います。
復活のイエス様はトマスの前にも現れました。イエス様はトマスに手とわき腹を調べるように言いましたが、トマスはもうそうする必要がありませんでした。それをしなくても復活のイエス様の言葉によってイエス様であることを知ることができたのです。
聖書を通して主が来てくださる
この世の闇のような世の中では私たちは「蛇のように賢く、鳩のように素直になる」(マタイ10:16)ことが必要ですが、主を信じることにおいては聖書の御言葉を反芻しながら、信じる者になりたいと思います。私たちが主を見失っても、主の方から私たちに近づいて現れてくださいます。