聖書 ヨハネによる福音書15章9~17節
今年度の教会聖句は「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ15:12)です。週報内側の一番上にこの聖句が書かれています。2月の教会総会でこの聖句を年間聖句とすることを決めましたが、その時の資料には次のように書かれています。
教会は41年目の歩みを始めるにあたり、主が40年間教会を導いて来てくださったことに感謝し、新たな一歩を踏み出します。イエス様が教えてくださった一番大切な掟は「あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい。」という掟です。私たちは互いに愛し合い、互いのことを思いやり、祈り合いたいと思います。良いこと(神の言葉)は必ず実現します。私たちに力や知恵が足りなくても、祈り求めるならば、主は私たちが互いに愛し合うことを実現してくださいます。今年度は創立40周年を感謝する記念行事を行います。これらの活動を通して互いに協力し、交わりを豊かにしましょう。
聖書の御言葉に聞いてまいりましょう。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
天の父は御子イエス様を愛しておられ、このことをイエス様は十分に知っておられます。そしてイエス様はイエス様に従う人々を愛しておられます。イエス様が「わたしの愛にとどまりなさい。」と命令されるのは、そこに平安があるからです。人生の中で荒れ野を行くときもイエス様の愛のうちにとどまるならば平安です。原崎百合さんという方が病床で詠んだ詩を紹介します。
わたしが共にいる 治らなくてもよいではないか
わたしが共にいる 長患いでもよいではないか
わたしが共にいる 何もできなくてもよいではないか
わたしが共にいる それでよいではないか
ある晩 キリストがそう言ってくださった
原崎さんは自分の死を前にしてイエス様にすべてを委ねて平安でした。子どもや夫を残して逝かなければならないことやいろいろとしたいと思っていたことができないという思いがあったでしょうが、それらすべてをイエス様に委ねています。イエス様の愛にとどまるとはこういうことです。
15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
イエス様は父なる神の愛のうちにとどまっています。それは父なる神の命令を守るということにおいてです。それと同じく、私たちがイエス様の命令を守るならば、私たちはイエス様の愛の中にいて、そこに留まることができます。
イエス様の命令とは何かといえば、私たちは思い出すのです。それは「あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい。」(マルコ12:30,31)ということです。
この命令はキリスト者にとって当たり前のことです。しかし世の中ではそれよりももっと価値が高いと思われていることがあります。それは隣人よりお金があること、幸せであることといったことです。他者と比べて優位にあることに満足を覚える生き方です。この価値が高いと考える人にとって「神を愛し隣人を愛する」ことは二の次になってしまいます。教会にもこの価値観は入ってきます。人と比較することは私たちの交わりを分断します。
イエス様はそれを批判するのではなく、ストレートに私たちが守るべきことを教えてくださいます。『他(ほか)のことには目もくれなくて良いのだ。「主なる神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する」。このことを第一にしていれば良い。』こう言われるのです。
15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
イエス様が私たちに最も大切な掟を命じられる理由は、イエス様の喜びが私たちの内にあり、私たちの喜びが満たされるためです。「私たちの喜びが満たされる」であって「私たちが喜びに満たされる」ではないことに気が付きます。
「喜び」は快楽ではありません。イエス様が言われる「喜び」は私たちの内にあるのではなく神から与えられる喜びです。そして「満たされる」とは「成就する」、「実現する」ということです。つまり「あなた方の喜びが満たされるために」というのは「あなた方の喜びが実現するために」という意味なのです。私たちに与えられる喜びの根源はイエス様が共にいてくださるということであり、「神を愛し、隣人を自分のように愛する」ことをおこなっていれば、喜びが現実のものになります。この喜びはイエス様が昼の暑い時間、だれも水くみなどしない時間に水を汲みに行った女性がイエス様に出会って、イエス様の言葉を聞いてようやく掴んだ「尽きることのない水」です(ヨハネ4章)。欲望によって得られる喜びはすぐに尽き果てます。しかしイエス様が与えてくださる喜びは尽きることがありません。
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
イエス様はここではっきりとこれは命令だと言われてから「私があなた方を愛したように、互いに愛し合うように」と命じられました。この命令がどれだけ大事な命令かがわかります。「互いに愛し合いなさい」という命令は、イエス様が先に私たちを愛したという事実を抜きにしては実行不可能です。
イエス様は私たちのために父なる神に赦しを願いました。ご自身をささげて私たちを執り成してくださいました。イエス様の愛は十字架によって私たちの目の前に差し出されています。はっきりと見えています。イエス様の十字架はすでに与えられているものです。だから「有難うございます」とイエス様の愛を感謝して受け取ればよいということなのです。こんな価値のない者を愛してくださるのです。しかし価値がないと思っているのは私たちであって、神は「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛しあなたの身代わりとして人を与える」(イザヤ43:4)と言われます。
父なる神・子なるキリスト・聖霊なる三位一体の神が私たちを価値ある者と認め、私たちを愛しておられます。これ以上に私たちを価値ある者としてくださる存在はありません。たとえ誰からも必要とされない人がいたとしても、神さまはその人を愛して必要としてくださるのです。
こんなにも私たちを愛してくださる神がおられます。だから私たちは互いに愛し合うことを学び、実行します。たとえそのことによって傷つこうともそうします。神さまが愛しておられるのですからその傷は癒されます。イエス様の十字架のもとに行けば休ませてもらえます。
15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
ここで使われている「命」は「決断や感情のもとになるもの」を意味します。自分中心に考えがちな私たちですが、その考えを少しだけ客観的に眺めてみると、自分の利益だけではなく隣人との共通の利益が見えてくるでしょう。そのことをイエス様は「自分の命を捨てる」という言葉で表現しています。イエス様は私たちに死ぬことを命じているのではありません。もちろん神の愛の大きさを私たちはイエス様の十字架の死で知るのではありますが、イエス様は私たちに死ぬことを命じているのではありません。
友のために自分のしたいことを棄てることや、自分の都合を一旦横に置いて考えることなどの、日常の中で私たちが判断するときの判断基準を、自分中心から、神さま中心にすることを命じているのです。そしてこのようにすることをイエス様は「これ以上に大きな愛はない。」と言われるのです。
15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
イエス様は難しい規則や、こと細かな規則を私たちに命じません。すべての判断基準をイエス様の命令に置けば、それでいいのです。「神を愛し自分を愛するように隣人を愛する」とは自分中心の判断を棄てて、隣人の身になって判断することです。そのようにするならば、私たちは神様に造られたものではありますが、神の独り子であるイエス様が私たちを友と呼んで、友として接してくださいます。
15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
私たちはイエス様の奴隷ではなく友達だとおっしゃってくださいます。イエス様は父なる神のことをすべて私たちに教えてくださいました。聖書にそのことが記されています。神は共にいてくださいます。神は私たちを「わたしのもの」としてくださり、大切な存在としてくださっています。イエス様はインマヌエルと呼ばれます。この言葉は「神は共にある」ということです。イ
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
私たちが一生懸命にイエス様をつかまえておかなくてもイエス様が私たちを捕まえていてくださいます。私たちは「神さまはどこにいるんだろう、こんなに苦しい時に何も答えてくれない」と思う時があります。あるいは神さまのことを忘れる時があります。しかし神さまは私たちを忘れることはありませんし、いつも導いていてくださいます。そして必要な時に御言葉を与えてくださいます。
私たちが神さまのために働くことや隣人のために働くことは実を結びます。その実は私たちがいなくなった後も残ります。その実は形がある場合もありますし、形がなくてある人の心の中にある場合もあります。医者で自ら土木工事を行った中村哲さんは天に召されましたが、ペシャワール会は中村さんの後を継いで今もアフガニスタンで灌漑事業をおこなっています。中村さんと一緒に働いた若者は今やそれぞれの場所で隣人のために働いています。牧師を育てるために説教塾を主催していた加藤常昭牧師は天に召されましたが説教塾は今も活動を続けて牧師の研鑽の場を提供しています。
先週もイエス様は「自分にとどまっているならば願いごとはすべてかなう」と教えてくださいました。先週聞いたヨハネによる福音書15章7節ではイエス様は「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」と言われました。今回はイエス様のお名前によって父なる神に願うものは何でも与えられると教えています。イエス様につながっていることとイエス様のお名前によって祈ることは同じなのです。
15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
ここでイエス様はもう一度12節の命令を繰り返します。「あなた方は互いに愛し合うように」と。すでに恵みは私たちに与えられています。そして神は共にいるという確信が与えられています。「私が共にいる」とイエス様が言ってくださいます。必要なものはすべて添えて与えられているのです。
豊かな交わりはイエス様の言われる「実を結んだ」状態です。互いに愛し合うならば、私たちにはこの実が与えられ、私たちの内に喜びが満たされるのです。創立41年目の年を「互いに愛し合う」年としたいと願います。