「主よ、信じます」(2018年7月29日礼拝説教)

詩編32:8~11
ヨハネによる福音書9:35~41

 イエス様は、目の見えなかった人に「あなたは人の子を信じるか」と問われました。
「信じること」「信仰」こそが、何よりも大切であり、この目の見えなかった人が目が見えるようになったことは、「信仰」という何よりも大切な「神の業」がこの人の上に顕されるためでありました。神と人との関係に於いて、「信仰」こそが大切、というよりも、人間と神を結ぶものは、神の愛に応答する人間の側からの神への信仰以外に無いのです。
 しかし、そもそも「信仰」とは何でしょうか。使徒パウロは、「人が救われるのは信仰による」という所謂「信仰義認」を徹底的に語り続けた人です。信仰義認は、キリスト教の中心的な教えです。さらに「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」というヘブライ人への手紙の有名な御言葉があります。
 イエス様は「神は霊である」(ヨハネ4:24)と言われました。私たちの肉眼で、神を見ることは出来ません。信仰とは霊であられる見えない神を、信じて仰ぎ見る。私たちも霊の目を開いていただいて、ただおひとりの神を信じて、仰ぎ見つつ、神が私たちと共にある、救いの確信を持って世を生きるということなのでありましょう。
しかし、それは盲信、ただ闇雲に「信じる」というのとは異にします。私たちは、それぞれ「信じ」て救われました。信じる前提には、私たちの弱さや嘆きを打ち捨てることは出来ず、私たちを見つけ出し、救ってくださったお方がおられ、そのお方との出会いがあり、喜びがあり、私たち自身のあり方が根底から造りかえられる出来事があった筈です。その出来事はそれぞれ違いますが、それぞれに顕された救いの出来事への確信に於いて立ち、神を礼拝し、祈り、御言葉に生きる。新しく、自分ではなく、神を中心とした生活神を賛美する生活に変えられてゆく。それが信仰生活と言えましょう。
 私たちは、週の初めの日の今日、主のご復活を記念する朝、教会に招かれ集い、神を礼拝しています。礼拝とは目には見えない神との出会いであり、神との対話の場と言えましょう。
各々が心で神に向かって祈り、対話をするということもありますが、実は礼拝の式順そのものが、神の招きの言葉から始まり、招きに答えて、神を讃える讃栄を私たちは神にささげ、詩編の御言葉を交読することで上よりの御言葉をいただき、賛美歌を神を見上げて歌い、祈りを献げ、上からの御言葉をいただき、説教を聞き、恵みへの応答として讃美歌を歌い、信仰告白を唱え・・・これらのすべては、上、神よりいただくことと、下、ここにある私たちから神へ献げること、この応答の関係が、礼拝の中の神と私たちとの対話と言えるのです。

私たちは、礼拝を通して主の復活の命に新たに与り、新しくされて、祝祷=派遣の言葉によって、私たちは新しい週の歩みに遣わされてまいります。
私たちは主に見つけ出され、愛され、招かれました。愛の主を私たちは仰ぎ見、それぞれ弱さを抱える者でありますが、信仰によって神と結ばれて、絶えず神を礼拝をし、世を生きる民なのです。礼拝こそが、神によって新しくされた私たちが神からの力をいただく源です。

 ヨハネによる福音書9章を三回に分けて読んでいますが、この生まれながら目が見えなかった人は、イエス様に出会い、イエス様の言葉に従った時に目が開かれ、見えるようになりました。
この奇跡が起こるきっかけは、何よりイエスさまがこの人に目を留められたこと―イエス様の目は、世で悲しみを持ち、苦悩し、弱さを持った人に、殊更に向けられます―その向けられた目に対し、弟子たちが「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」という、人間的に侮蔑的とも言える問いかけを、イエス様に投げ掛けたことから始まりました。
 しかしそもそも、罪も無い人間など居ないのです。この時、この目の見えない人を見下したような言い方をしている弟子たちにも、人を見下したように、このような問いかけをすること自体に罪があります。それなのに、自分たちが体に障害が無いことを、先祖も自分もあたかも罪を犯していないかのような言い方をしている。弟子たちは自分の罪を知らない。彼らはまだ真理が見えていない。しかし、イエス様はそのように見えていない弟子たちの言葉を通しても、御心を顕していかれます。

この生まれながら目が見えなかった人は、目が開かれ、先週お読みした、ユダヤ人たちとの論争の中で、徐々に「自分の目を開けてくださった方」に対する目―霊の目―が開かれて行きました。
この人は、最初のファリサイ派の人たちからの問い掛けに対し、「あの方は預言者です」と答え、さらに「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見える」と愚直なまでにその事実を告げた後には、「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と、自分の目を開けてくださった方は、神から遣わされた人であることを告げるのです。この人は、「イエスとは誰か」の問いかけに対し、まっすぐに愚直なまでに答え続けました。それは、目が見えなかった自分が癒され見えるようになった。その事実の前に、救われた事実を語るしか出来ない。公に愚直なまでに救いの事実を言い表すしかこの人には出来なかった。それを語る毎に、「自分の目を開けて下さった方」、イエスとは誰かに対する確信が深まってきているのです。
そして、その言葉にユダヤ人たちは怒り、彼を「外に追い出した」ました。この追い出したということは、建物から外に追い出したという訳ではなく、22節で語られておりました「ユダヤ人たちは、既にイエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた」、このことを、この人に対して行ったということです。「会堂から追放する」ということは、この人は、事実をありのままに語り、それが結局「イエスをメシア」と告白したと見做され、放り出された。すなわちそれはユダヤ人としての市民権を失うことになり、路頭に迷う出来事であったということです。

イエス様はこの人が、ユダヤ人の会堂から追い出されたことをお聞きになりました。「そして彼に出会うと」と書かれていますが、この「出会うと」を原文から直訳しますと、「彼を見つけ出し」の方が訳文としては正確と思われます。偶然の再会ではなく、イエス様の方から、積極的に、目の見えなかった人を見つけ出されたのです。
イエス様は、イエス様に見えなかった目を見えるようにしていただき、そしてそのことから信仰の目が開かれていき、問われたことに愚直に答え会堂から追い出された人、共同体から追い出され、路頭に迷うこの人のところに自ら来られました。そしてイエス様ご自身が直接この人に問われました。「あなたは人の子を信じるか」と。
「人の子」とは、イスラエルの民・ユダヤ人に待望されていた、救い主を表す特別な言葉です。そのユダヤ人たちの信仰の言葉を用いて、ユダヤ人の会堂を追放されたこの人に対し、イエス様は敢えて問い掛けられるのです。
 この人は答えます。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」。
 この時のこの人は、目の前に居る人が、自分の目を開けてくれた人であったことを知っていたのでしょうか。声で「その人だ」ということが分かったのではないでしょうか。演劇的なものの観かたかもしれませんが、私には、この人が、イエス様を前にして、顔と顔を合わせ、しっかりと目を見つめて、震えるような感動をもって、この言葉を問い掛けた、その情景が浮かびます。
 イエス様は答えられます。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。
 この人は、主の言葉に即座に「主よ、信じます」と言って跪くのです。

 9章のこの出来事、生まれながらに目が見えなかった人とは、もしかしたら、私、そして私たちなのではないでしょうか。
 ここにおられる皆様は、生まれながら視力を持ってこの世に生を受けられたと思います。しかし、はじめは神を知らずに生きていました。信仰に目は開かれていなかった。
この人は、肉の目が見えなかった。この人が目が見えないということは、私たちが神を知らずに生きていたことを象徴的に表しているのではないでしょうか。いえ、実際、イエス様は、生まれながら目が見えなかったこの人の目を開けられた。これは奇跡でした。そして、その目を開けられた奇跡を通して、イエスというお方はどなたであるか、にまで霊の目が開かれていき、愚直なまでに、恐れなく、「その人は神から来られた」ということを公言し、主の御前に立ち、跪き「主よ、信じます」と告白をするに至ったのです。
 私たちもそれぞれイエス・キリストに出会う経験をし、救われ、イエスとは誰か、そのことを求め続けることによって、徐々に目が開かれていき、例えば、信仰を持つことに反対をしたり、無関心な家族や友人に対して、それでも「イエス様こそが救い主だ」ということを、救われた喜びを伝えずにはいられない、何とか伝えたいと願う、そのような経験をされておられるのではないでしょうか。
そのように、受けた愛を伝えたいと願うこと、不器用でも、率直に、愚直に、イエス様は主であるということを語ること、信仰の告白を絶えずしていくことは、その人自身の信仰を成長させますし、先週お話しいたしましたが、信仰を告白することは、その人を、言葉に責任を持つ大人にしていきます。
また信仰を告白し続けることは、共同体を励まします。昨日も、あすみが丘家庭集会でひとりの姉妹の信仰の素晴らしい生きた証しをうかがい、一同大いに励まされました。

この目の見えなかった人は、その告白によって、ユダヤ人としての大切な市民権を失いました。信仰によって、世に於いては損害を被ることになったと言いましょうか、外に放り出されてしまった。しかし主はこの人を、主は憐れまれ、ご自身が見つけ出し、側に近寄ってこられ、「あなたは人の子を信じるか」と問われたのです。
ルカによる福音書19章、徴税人ザアカイのことが語られているところで、「人の子は失われた者を捜して救うために来たのである」とイエス様ご自身が語っておられますが、ここでもまさにそのことがこの目の見えなかった人の上にも起こっているのです。そしてご自分がどなたであるかを、この人個人に直接示されたのです。
キリスト教信仰を持つということは、この日本という国に於いては少数派に属し、時に信仰の告白を躊躇われることがあったり、また伝道することで親しい人との関係に、微妙なずれや気遣いが生じることがあるかもしれません。イエス様こそが道であるという真理に目を開かれていない人が、あまりにも多くいることを思います。
しかしイエス様は、ユダヤ人の会堂から放り出された人を自ら見つけ出して、近づかれたように、主のために苦しむ私たちに目を留めて下さり、見つけ出し、自ら近づいてご自身を証ししてくださいました。「わたしが、その人だ」と。
その主の愛を私たちもいただいていることを、どのような時にも忘れず、覚えたいと思います。そして、主の祝福の中、祈りをもってひるまず、キリストを証しし続けるものでありたいと願うものです。

 そして、この人が、「主よ、信じます」という信仰の告白に導かれ、跪いたこと。これは、私たちの洗礼の姿なのではないでしょうか。
 洗礼の時、それを牧師が授けます。牧師は世にあって洗礼、聖餐という聖礼典を執り行いますが、その時、そこに居られるのは、イエス・キリストなのだということです。牧師がイエス様の代わりだということを言っているのではありません。聖礼典の本質は、イエス・キリストにこそあるということです。
洗礼の時、「イエス・キリストを主と告白しますか」と問い、「告白します」と答えていただき、跪いていただき、洗礼を授けます。跪いて洗礼を授けるというのは、洗礼のひとつの形であり、全身を水に浸すという洗礼の形が古来から最もなされていた形ではありますが、私たちの教会の洗礼の形を、この御言葉に見る思いがいたします。
「人の子を信じるか=イエス・キリストを主と告白しますか」と問うてくださるのは、イエス様の言葉であり、その言葉に答えて信仰を告白し、イエス・キリストの御前に跪くのです。また聖餐のパンとぶどう汁を分けられるのは、最後の晩餐の時の、イエス・キリストである。そのことを心に留めていただきたいと願います。

 跪くこの人に対し、イエス様は言われました。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」。
 この人は、見えなかった目が見えるようになり、それは真理に開かれる目となりました。
 しかし、見えているようで、実は見えていない人々がおりました。それが、自分たちこそが律法を守り、正しい神の民であると信じて疑わず、律法を守らない人々を自分たちの尺度で裁き続けるファリサイ派の人々でした。
イエス様のこの言葉を、ファリサイ派の人々は敏感に感じ取り、「我々も見えないということか」とたて付きます。それに対し、イエス様は言われるのです。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と。
頑なに、自分たちの目線、見えるところだけに固執して、真理から目を背け続けているユダヤ人ファリサイ派の人々。ファリサイ派の人々というのは、真面目に信仰に生きている、生きていると思っている人たちです。しかし、信仰はいつしか人生の飾りになることもあり得る。打ち砕かれた心で神を絶えず礼拝する心がなければ、信仰が世で自分を誇る何某かに摩り替わる場合があります。ファリサイ派の人々は自分たちだけが律法を守っているという誇りに生きており、神を信じると言いながら、実は自分の誇りを頼りとし、神を見ることが出来ずにいました。彼らは「見えている」と自分は思っている。しかし、神の目には彼らは「見えていない」のです。そして自分は「見えている」と頑なに自分を誇り続ける人たちに、イエス様の言葉は殊更に厳しいのです。
しかし、このファリサイ派の人々の信仰の姿も、もしかしたら、私たちの姿であるかもしれない。私たちは、自らの信仰のあり方をファリサイ派の人々に照らし合わせて絶えず吟味する必要がありましょう。
また、イエス様は「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう」と仰っておられますが、「見えなかった」ならば、それは伝えられていない、知らないのですから、その人には罪はない。その場合、寧ろ、罪は「信仰を語らなかった」側に残るのかもしれません。私たちは、私たちの信仰を告白し、不器用であっても、語り続けなければならないのです。

私たちは、「人の子を信じるか」という主の問いに対し、絶えず、自分自身の真実の心、信仰をもって、「主よ、信じます」と、絶えず応答出来る者でありたいと願います。さらに信仰を公に言い表し、自分の「正しさ」を打ち砕き、打ち砕かれた心で、絶えず神を礼拝をする民として、またこの教会がそのような者たちの群れとして、共に歩んで行きたいと願っています。そして、皆さんの、信仰の言葉を、主を証しする言葉を、たくさん聞きたい。
「主よ、信じます」、この告白を出来る人は幸いです。