「声を聞き分ける」(2018年8月12日礼拝説教)

イザヤ書40:3~8
ヨハネによる福音書10:1~10

 私たちの周りには、いろいろな声があります。優しく語り掛ける声、励ましてくれる声、怒っている声、悲しんでいる声、声にならない声、誘惑の声・・・
 旧約聖書には、さまざまな預言者と呼ばれる人たちが居ますが、預言者というのは、未来を「予言する」予言者ではなく、いただいた神の言葉を「預かって語る」という意味での「預言者」です。しかし、旧約聖書の時代、預言者と呼ばれる人たちの中には、「偽預言者」と呼ばれる、まことの神の声ではなく、自分たちの願望をあたかも神の声を聴いたかのように伝える人たちも多くおりました。このようなことは、現代でも起こり得ることです。それがまことの神の言葉であるのか、私たちは「聞き分ける」耳を持たなければなりません。
お読みした列王記上22章には、預言者ミカヤという人が登場しますが、この人は神からの真実の預言者で、イスラエルで最悪の王と呼ばれるアハブ王に神の言葉を聞いて語っています。しかし、預言者ミカヤが神の言葉を聞いて語っている背後には、アハブ王お抱えの400人の偽預言者の存在がありました。その人たちはアハブの機嫌を取るために、アハブに都合のよい言葉をあたかも神からの声を聞いたように語り、アハブを偽りの言葉で安心させ、真理から離れさせる、そのような人たちでした。
そして、真実の厳しい神の言葉を語る預言者ミカヤは、アハブ王から憎まれていたのです。アハブ王はこの時、ラモト・ギレアドとの戦いに勝利するという言葉を、預言者ミカヤの口から聞きたかったのですが、ミカヤの語ったことはこうでした。「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました。主は、『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ』と言われました」と。

 さて今日の御言葉は、ヨハネによる福音書の中でも有名な「羊の囲い」「羊の門」という言葉を用いてのイエス様の説教です。聖書は私たち人間を羊、神を羊飼いと語ります。
 羊という動物。自分では何も出来ない弱い動物です。以前、軽井沢に教会のキャンプで行った時、羊のいる牧場に皆で行ったのですが、そこで小さな木の囲いの中に、砂埃にまみれて薄汚れて寝そべっている羊を見ました。自分の体が汚れているのに、それに構いもせず、気にもせず、夏の暑い日でしたが、ただどんよりと灰色の体になって寝ている。それを見た友人は「神様から見て、僕たちはこんな風に見えるのか。ショックだー」と言いました。そんな情けない無力な姿でした。
 羊は弱い動物でありますが、また融通が利かず強情な点もあるようです。興奮して飛び出してしまうと、引き返せなくなるのです。以前トルコでは、バスの車窓から何度か羊飼いと羊の群れを見ましたが、ある羊の群からバスが遠ざかってすぐ、一匹の羊が群と反対方向を向いて一匹で、行き場を失い、茫然と立ちすくんでいる姿が忘れられません。あの羊は無事に群に戻れたのだろうか?と今でも時々思い出します。
弱さと興奮すると取り乱す性質。弱さは反対の強情としっかり結びついていると言いましょうか。弱く、強情な羊の姿は、私たち人間の姿そのものと言えましょう。そのような弱さを持つ羊には、羊飼いの導きが必要なのです。

そのような弱い羊ですが、イスラエルに於いては、神への献げもの、犠牲の動物として用いられていました。
イエス様は、御自分のことをここで「羊の門」と語っておられますが、「羊の門」について、イスラエルの歴史の中で、最大の悲劇であったバビロン捕囚からの帰還の後の書物である「ネヘミヤ記」には、ネヘミヤが捕囚によって破壊された神殿を再建する出来事が書かれています。
その時、最初に再建されたのが「羊の門」でした。「羊の門」とは、神殿で人々の罪の贖いとして犠牲としてささげられるための動物が神殿に入ってくる門なので、「羊の門」と呼ばれているのです。神殿にあって、犠牲の動物がなければ罪の赦しは得られないので、真っ先に羊の門を再建したのでありましょう。
 ヨハネによる福音書5章では、2節「エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で『ベトザタ』と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった」と語られていました。イエス様は恐らくこの時、羊の門から神殿に入られ、ベトザタの池の回廊で38年間も病気で苦しんでいた人を癒されました。しかし、癒されたこの人は、イエス様のもとから「立ち去って」ユダヤ人のところに行き、「自分を癒したのはイエスだ」と知らせたために、この時から、ユダヤ人たちのイエス様に対する嫉妬、そして迫害が始まっています。
「立ち去った」人は、ユダヤ人のところに行った―この5章のこの出来事は、今日お読みしたイエス様の御言葉の布石になっているように感じられます。と申しますのも、10章の「羊の囲い」「羊の門」そして来週お話する「羊飼い」に関するイエス様の説教、これらは非常に有名で、その部分だけが一人歩きをしそうな御言葉ですが、実は、これらは9章の目の見えない人の癒しと、自分は真理が見えていないのに「見える」と言っているがために「あなたたちの罪は残る」と言われた、ファリサイ派ユダヤ人たちとイエス様との論争に引き続いて語られている御言葉なのです。
5章のベトザタの池でイエス様に癒され立ち去った人は、ユダヤ人のところに行ってしまいました。癒しの出来事は、羊の門の中で起こった出来事でありましたけれど、その人はイエス様のところに留まらず、立ち去ってしまった。そしてそこに居たユダヤ人たちは、神殿の中には居ましたけれど、犠牲の動物の入っていく「羊の門」など、自分たちのプライドに賭けても通ったりはしなかったでしょうし、ユダヤ人たちは神に最初に選ばれた、神の救いのうちに入れられようとしている人たちでありますのに、神が人となられたそのお方が来られ、自分の目の前におられるのに、その「声を聞き分ける」ことが出来ずに、羊飼いであられるイエス様の声を「聞き分ける」ことが出来ないで、「羊の囲い」の外に、「勝手に」出てしまった人たちなのです。

それに対し、9章でイエス様に癒された、生まれながら目の見えなかった人は、癒されたことをきっかけにして、その後、ユダヤ人と論争になっていきますが、イエス様という真理から引き離そうとする悪意を持ったユダヤ人たちとの論争を通して、徐々に真理に目が開かれて行きました。そして、遂に、「主よ、信じます」と、自らの信仰をイエス様の前で告白したのです。
この人は、羊飼いの声を「聞き分け」て、羊の囲いの中に入った、一匹の羊となった人であったと言えましょう。
 
 エルサレム神殿の「羊の門」のことをお話しいたしましたが、しかしながら今日の御言葉は、エルサレム神殿の「羊の門」のことを直接語っているわけではありません。イエス様の念頭には、ご自身を「羊の門」と語る時、エルサレム神殿の「羊の門」のことも、必ず思いの中にあったことと思いますが、ここで語られる直接的な意味は、「羊の囲いの門」です。そして、「羊の囲い」と言いますと、日本の牧場にいる羊の囲いのような、牧草地にある木で出来た簡素な囲いを想像し勝ちですが、ここで語られている「囲い」という言葉は、「家の庭」という意味の言葉です。聖書の中では、イエス様が捕らえられた後、大祭司の家の中庭で、ペトロが三度、イエス様を「知らない」と言ったという、この「中庭」というのと同じ言葉に当たります。つまり、一つの家屋についている庭。そこを塀で囲って、夜は羊をそこに入れて寝かせるという場所なのです。
「囲い」とは、人の家の庭であり、門番が居るのですから、とても大きな家の庭だということが思わされます。そして門は、通常ひとつです。
 門を通って入るのは、その家の羊飼いだけです。門番がおり、羊飼いが来ると、門を開け、羊飼いは、声を上げ、自分の羊の名を呼んで、外に連れ出すと言うのです。
 
 モートンという人の『主の御足の跡を踏んで』というパレスチナで体験した羊飼いのことについて載せられている古い本に書いてあることには、羊飼いは時々、歌うような大きな奇妙な、動物的な声で羊たちに話しかけるそうです。その声を聞くと、羊たちが草を食べているのを止めて、群れ全体が一斉に斜面を駆け下りていく。しかし、他の人が似せてやってみても、羊たちはぴくっと一瞬頭を上げるけれども、直ぐに何ごともなかったように草を食べ続けるのだそうです。イエス様は、そのような羊の群をよく見て知っておられたのですね。羊は、頑固ですが、頑固ながらにと言うのでしょうか、羊飼いの声を聞き分けるのです。
 また羊飼いは、羊の名を呼ぶというのです。羊一匹一匹に名前をつけているのです。実際、当時のパレスチナではそのように一匹一匹に名前が付けられていたと言います。名前はその人格を表します。羊飼いにとって一匹一匹が大切な人格であり、羊飼いにとって大切な存在であるということです。

 そのように羊飼いの声を知り、聞き分けた羊たちは、羊飼いの声を聴いて、羊飼いの声に従ってついて行くのです。家の庭には、強盗が門を通らずに、ほかのところを乗り越えて入り込んでくるということが有り得ます。しかし、羊たちは、強盗の声にはついて行かないのです。
「羊はその声を知っている」と、4節にありますが、聖書に於いて「知る」ということは、ただ面識があるとか、ちょっと知ってるよ、という程度のことではなく、深い交わりに於いて知るという意味があります。羊は、羊飼いとの深い交わりに於いて、羊飼いを知っているのです。羊飼いがどれほど自分を愛してくれているかを知っているのです。羊飼いと羊の関係は非常に密なものなのです。
 
 このことを、イエス様はファリサイ派の人々に対して語られましたが、ファリサイ派の人たちは「その話が何のことか分からなかった」とあります。この人たちは、自分の目は見えると思っています。律法を守り、自分たちこそが、その行いに於いて、神の民だと信じています。そしていつしか、神を誇るのではなく、自分の正しさを誇るようになっていました。自分自身の誇りが大きくなりすぎていて、自分自身の誇りに富みすぎていて、真理を見ることが出来なくなっており、さらにイエス様の言葉を彼らは聞き分けることが出来ないのです。
しかし真理が見えていないのに、自分の目こそは見えると思っている。さらにイエス様の言葉が分からない、聞き分けられないことに於いて、彼らには「罪が残って」いるのです。
彼らは絶えず、堂々と、エルサレム神殿の正面から神殿に入り、異邦人にも開かれている庭を通り抜け、ユダヤ人の女性が入れる女子の庭を通り抜け、さらにユダヤ人の男だけが入れる「男子の庭」に入ってゆく。そこに行くまで何度も柵があり、門があります。すべての門を通り抜けることが出来る特権階級です。羊の門のように、犠牲の動物が入ってゆく小汚い門などファリサイ派の人々には関係ありません。堂々と正面から絶えず神殿に踏み入る、人の目にも、自分たちの誇りに於いても「立派な」人々です。
しかし、彼らは、その自分の立派さ、人目からの立派さに於いて、そのことこそが自分の誇りとなっており、いつしか神を自分の脇に追いやり、神の御子が目の前に顕れても、その真理を見ることは出来ず、その声を聞いても、自分に心地よい言葉でないので受け入れない。どこまでも自分本位なその姿では、本当に神と出会うことは出来ない。そのようなファリサイ派の人たちのことを、イエス様は、強盗、盗人とここで呼んでおられます。神にあるべき誇りも何もかも、神から奪い取り、自分のものにしようとしている強盗です。そのようなあり方では神を「知る」ことなど、到底出来ないのです。
何故なら、神は、自分本位なお方ではありません。ご自分の誇りや高さなどかなぐり捨てて、低き地に降りて来られたお方です。自らを犠牲にして、人間を、弱く強情な羊たちを、何としてもご自身の「囲い」に入れることこそを熱望しておられ、そのためには、ご自身の命すら惜しまないお方です。強情なまでの自己愛、自分を高めたい心と、神を愛する心は、共存することは出来ません。

 さらにイエス様は言われます。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である」と。
 7節からは、「羊の囲い」があり、羊飼いの声を聞き分けることの出来る羊が、そこで囲われ、匿われ、導かれることが語られていましたが、ここからは、イエス様ご自身が「羊の門」であると語られるのです。
「羊の門」とは、神殿で、犠牲の動物の入って行く門です。イエス様ご自身がその門であるというのです。そして言われるのです。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」と。
 イエス様は、エルサレム神殿の北側、正面の階段の真裏にある犠牲動物の入っている「羊の門」がご自身だと言われました。
 人間のすべては罪ある者たちです。その者たちは、羊の門、犠牲と贖いのあるその門を通らなければならない。自分は目が見える、聞こえている、神の前に正しい者だと誇りつつ、恭しく神殿の正面の階段を上って神殿に入る者ではなく、羊の門を通って入る者こそが、羊飼いなる神の羊なのです。
羊は犠牲として献げられる動物ですが、しかし、羊の門であられる、すべての罪をその身に負って十字架で死なれたイエス様。ご自身が門であると言われる羊の門。そこを通って中に入る羊は、そこで養われる羊は、自分自身が罪のために死ぬことはなく、また犠牲として献げられるのでもなく、門であられるイエス・キリストによって、贖われ、救われ、神の小羊として、羊飼いの声を聞き分け、羊飼いに導かれるままに育まれ、柔らかな牧草を絶えず与えられつつ、生きる。
羊は弱く、迷いやすく、強情な動物です。羊は私たち自身です。一歩ひとり外に出れば、危険があります。
しかし、羊飼いの声を聞き分け、羊の門から入り、そこで養われるなら、神が共にある平安があります。確かな導きと道があります。

私たちは、羊飼いの「声を聞き分け」て、今、ここにおります。いる筈です。
「羊の門」は、綺麗な門ではありませんが、しかし、そこから、自らの罪を見つめ、悔い改め、神殿―地上に於いて、神の名が留められているところであり、神を礼拝する場所―に入り、そこに身を置き、留めつつ、生きるのです。そこにこそ、羊飼いなる神の導きがあります。
 今、それはこの礼拝を中心とした教会生活の中にこそあります。私たちは、主が犠牲となられた十字架の下、主が犠牲の小羊として、すべての罪をその身に帯びて、神に献げられたことを示す、聖餐卓を囲んで、週の初めの日の朝、神を礼拝いたします。礼拝から、世に送り出されて行く民です。送り出される時にも、羊飼いの声があります。羊飼いの声に従い、外に出る。外での歩みの中では、絶えず御言葉に聴きつつ、何が御心かを問いつつ、祈りつつ、御声に耳を傾けながら歩み、そして、また一週の歩みを終えてここに戻ってきます。
 そのような一匹の羊として、絶えず神の声を聞き分け、神に養われつつ生涯を歩みぬきたいと願います。主なる神は、その命を賭けて、私たちを羊の囲いに入れてくださったのですから。