イザヤ書53:11~12
ヨハネによる福音書11:45~57
先々週とその前と二回に亘って、11章のラザロの死と蘇りの御言葉に聴きました。
少し振り返りたいのですが、イエス様はマルタに言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか」と。そして、マルタの兄弟であるラザロは、死んで四日目に墓の中から蘇ったのです。
「わたしを信じる者は、死んでも生きる」というイエス様の言葉は、マルタの「終わりの日に復活することは存じております」という信仰告白によって明らかにされた真理の言葉でした。
この言葉をイエス様は村の入り口で仰ってからベタニアに入り、マルタ、マリア、ラザロの家に行き、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」というマリアのイエス様の前にひれ伏すしかない信仰と涙に、また人間の定められている死というものに激しく憤りを覚えられ、父なる神に祈り、死んで墓に葬られ、四日も経っているラザロに向かって、「ラザロ、出てきなさい」と言葉によって命令されますと、死んでいた人、ラザロ=神が助けである、という名を持った人が、手と足を布で巻かれ、顔は覆いで包まれたまま、墓から出てきたのです。死んで四日も経ち、体は腐敗が始まっていた、そのような死の状態から、ラザロの体は蘇ったのです。
このことは、ヨハネによる福音書の、イエス様の行われた「しるし」=イエス様が神の御子であるというしるしを示す七つ目のしるしでした。
それにしても、ラザロはイエス様と非常に親しい間柄であったということは分かりますが、ラザロの病気、死、そして蘇りに至るまで、ラザロ自身の信仰ということは触れられておりません。「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言われ、蘇らされたラザロですが、ラザロ自身が「主よ、信じます」とは語っていないのです。信仰の告白だけでなく、ラザロの言葉というのは、福音書の中でひとことも語られておりません。ラザロについて語られていることは、病気になり、死んだ。イエス様の言葉によって蘇って、墓から出てきた。その後、12章では食事をしていたということが語られているのですが、様子、行動だけが記されている人なのです。ラザロ自身が何を語り、何を思うどのような人物であったかは語られておりません。ラザロ自身の信仰の告白や思いや人格に代えて、ラザロの姉妹の信仰と涙が語られ、姉妹の信仰と涙はイエス様を突き動かし、ラザロを蘇らせるに至ったと言えませんでしょうか。
信じる者の愛と涙、願いをイエス様はきいてくださる。「信じる者は、死んでも生きる」それは、その信仰を告白したその人自身のみならず、愛する人の救いにも至る、そのように読めるのではないでしょうか。私たちは、私たちの大切な人たちのために、また救われていない多くの人たちのために、強く祈るべきです。
このしるしは、多くの人を驚かせ、イエス様を信じる人とさせました。二匹の魚と五つのパンで、男だけで5000人が満腹した出来事が6章で語られておりましたが、その後6章では「しるし」を求める人たちが、イエス様の話された永遠の命の言葉に躓き去って行き、また弟子たちすらもイエス様のもとから去っていき、イエス様の孤独な姿が語られておりました。続く7章からは仮庵の祭りのエルサレムでの出来事が語られており、イエス様は神殿の境内で人々に話され、多くの人々がふたたびイエス様を信じるようになり、しかし多くの人がイエス様を信じたが故に、ユダヤ人たちはイエス様に嫉妬し、イエス様を殺そうと企むようになったことが語られておりました。さらに生まれつき目が見えなかった人の目が開かれ、その人が信仰告白をするという出来事を通し、イエス様に対するユダヤ人たちの憎悪はどんどん増して行き、遂に死んだ人ラザロが4日目に墓から蘇るというしるしが現され、さらに多くの人々がイエス様を信じ、信じる人々は「群衆」と言われるほどになっていました。そのことは、12章後半の、イエス様の最後のエルサレム入場の時に、大勢の群集がイエス様を迎えに出たということから分かります。
そのようにラザロの出来事によって多くの人々がイエス様を信じるようになりました。しかしこのことを目撃したユダヤ人の一部がファリサイ派の人々のところに行って告げたのです。同じ言葉を聞いても、同じ出来事を見ても、人々の反応というのはそれぞれです。
イエスという人に多くの人が付き従っている―このことはユダヤ人たちにとっては、ユダヤ人社会の中での自分たちの権威を脅かすばかりでなく、ローマ帝国との関係に於いても脅威と思えました。そこで、最高法院=サンヘドリンを召集したのです。
最高法院というのは祭司(サドカイ派)、律法学者(ファリサイ派)、民の長老たちという三つの階級から選ばれた70人の議員と議長の役割の一人の大祭司によって構成されていた、ユダヤ教の最高の審議機関です。
イエス様の時代、ユダヤ人は自分たちの国を持っていませんでした。大きな権勢を振るっていた広大なローマ帝国の属州ユダヤとして、ローマ総督の監督下に置かれていたのです。
先週使徒言行録の説教をさせていただいたことと丁度重なるのですが、ヘロデ大王が死んだ後、ヘロデ大王の息子たち三人がユダヤを分割統治することになり、そのうちのひとりユダヤ地方を統治していたアルケラオが大変な暴政を敷いたために、ローマ皇帝によって流刑され、ユダヤ地方は、ローマ帝国直轄の総督領として取り上げられました。そのために税金の方式が変わったのです。ローマ直轄となったために新しい徴税制が敷かれ、住民登録・人口調査が行われたのですが、その新しい税制に反対して、ガリラヤのユダという人が暴動を起こしました。しかし、ローマ帝国によって容赦なく鎮圧させられてしまった。ローマ帝国は、属州の市民の暴動には容赦なかったのです。このローマへの反乱の事件は、ユダヤ人たちに大きな心理的な影響を残していたようです。
最高法院を構成するユダヤ人の指導者たちの中で、ファリサイ派というのは、政治的な党派ではなく、唯一の関心は、生活に則した律法の細分化についてであり、律法を守ることを続けることが出来るならば、誰が政権を握ろうとも意に介さないような人々で、またメシア=救い主の到来を待ち望みつつ、終わりの日の死者の復活を信じていた人たちでした。それに対し、祭司、サドカイ派の人々というのは、極めて政治的であり、神殿の祭儀を中心として生活をしている特権階級。裕福で、貴族的、またローマ政府に協力的な人々でもありました。自分たちの富と安逸と、権力者としての地位が保持されるためには、喜んでローマに協力することに甘んじていたと申します。またサドカイ派は聖書をモーセ五書しか認めておらず、五書には死者の復活が語られていないため、ファリサイ派の人々が信じていた終わりの日の死者の復活を信じていない人々でもありました。
「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と語ったマルタは、当然のことながら特権階級のサドカイ派ではなく、ファリサイ派に近い信仰を持っていたのだと言えましょう。
最高法院の場でそれらの人々によって語られたことは、「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」ということでした。
つまり、イエスという男は多くの不思議なしるしを行って人々を引き付けているが、このままにしておくと、人々は皆イエスを信じるようになり、例えばガリラヤのユダのような暴徒となったとしたならば、ローマは総力を上げて、イエスとその暴徒たちを潰しに来る。そして、それと共に、間違いなく、何とかローマににじり寄りながらそれなりの関係を保ち、権力を保持している自分たちをも、権力の座から引き摺り下ろし、エルサレム神殿も、ユダヤの民も滅ぼされてしまうだろう、と言うのです。
そこでこの時の大祭司カィアファ、議長の役割を担っていた人が申します。カィアファという人は、ここでは「この年の大祭司」と語られておりますが、この一年だけ大祭司であった訳ではなく、紀元18年から36年まで比較的長い期間その役職に就いていた人であることが分かっています。
そして申します。「あなたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」と。
この言葉は、最高法院に於けるイエス様殺害の決定的な言葉となりました。仮にイエス様を取り巻く群衆によって暴動が起こったと考えるならば、そのことによってローマの軍隊が出動し、エルサレムと、ユダヤの人々全体が滅ぼされるような惨事が起こってしまう。その前に、予測されるそれらのことに代わって、ひとりの人、イエスが死ぬならば、神殿もユダヤの人々も滅びないで済む。この方が、あなたがたにとっても好都合ではないか、と。
ヨハネ福音書の著者は、このことを「これは、カィアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので、預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである」と語ります。
福音書の記者が後の時代にこの時のことを振り返り、皮肉も交じえつつ語っているということもあるのでしょうが、このカィアファの言葉には、真理としての預言が隠されています。カィアファは極めて人間的な見方で現実を見ており、そこから「ひとりの人、イエスを殺す」という狡猾な判断を下していますが、しかしその言葉は、彼の意図、あるいは自覚とは裏腹に、神の計画を預言することになっている。極めて不信仰な言葉が、信仰によらなければ言えるはずのない言葉に、結果としてなってしまっているのです。
大祭司とは、祭儀を司るだけでなく、神の言を民に告げる役割をも果たすべき人物です。神のご計画を告げるべき大祭司が、意図せずして、また全く逆の意味でイエス様がこれから歩むべき道を告げてしまっているのです。何故なら、イエス様は、この後、捕えられ、十字架に架かって死なれる、その出来事が起こるからです。
その死の意味を、今日お読みしたイザヤ書53章が語っています。この御言葉は、旧約聖書の中のメシア預言、救い主を預言すると言われている御言葉で、ここは特に「苦難の僕」と言われる御言葉です。この預言の言葉が語られたのは、紀元前530年頃と考えられています。イエス様が世に来られる500年以上も前に、苦しみを受ける神の僕、救い主のことが預言されていたのです。今日は一部しかお読みいたしませんでしたが、53章全体がイエス様の十字架を預言した言葉だと言われています。
5節をお読みします。「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された」ここには、イエス様の十字架への道行の御苦しみを思わせる描写が記されてあります。そして今日お読みした11,12節には、「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった」
ローマ帝国の政治犯の極刑としての十字架の上で、罪人の一人として数えられ死んだひとりの人。その架かられた十字架は、多くの人たちの過ちを担った十字架であり、その死は、神に背く人々への執り成しであったというのです。
イエス様は、すべての神に背く人々の罪をその身に帯びて十字架の上で死なれました。イエス様という神が人となられたひとりの人が死ぬということは、すべての国民、人々、のみならず散らされている神の子たち―これはエルサレムから離散してしまっているユダヤ人を具体的に指すのでしょうが、ユダヤ人だけでなく、世界中に飼うものの無い羊のように散らされている人々をも神の許に、一つに集めるためであったのです。
どのように一つに集めるのか。
教会はイエス・キリストの体と言われています。教会は、イエス・キリストの十字架によって罪赦され、主の復活にならい、新しい命をいただいた者たちの群です。まことの命、永遠の命をいただいている者たちの群です。復活のキリストを頭として、私たちは、自分の罪を認め、悔い改め、ただイエス・キリストを信じる信仰によって、イエス・キリストのもとにひとつに集められ、ひとつの体とされているのです。そのように、悔い改めと、信仰によって、具体的には、マルタのような信仰の告白により、マリアのようにひれ伏すような信仰により、主にひたすら縋り続ける涙によって、イエス様をひたすら愛する愛により、私たちは、イエス・キリストのもとにひとつとされて、新しい命の道を歩み始めるのです。
イエス・キリストを信じる者たちは、その信仰によって永遠の命、神と共にある滅びることのないまことの命をいただけます。世の死を超えたまことの命です。
ひとりの人の死が、すべての人が滅びず生きる道をもたらしました。カィアファの言葉はまさに預言の言葉でありました。図らずも、不信仰な言葉が信仰の言葉になったのです。神はどのような人やものを用いても、御心をあらわされるお方です。
ラザロは、姉妹たちの信仰と、イエス様への激しいまでの愛によって、涙によって、イエス様の憐みの器となり、蘇りました。それは、イエス様への愛と信仰のあるところに、死は、滅びはないということのしるしです。信仰と愛のあるところ、その信仰と愛は、神の憐みを呼び起こし、それを持つ個人を超えて、周囲の人々に広がって行きます。
そしてイエス様の十字架の死は、復活へと変えられ、すべての人がまことの命へと導かれるただひとつの道となりました。多くの人が正しい者とされるために、ひとりの人が民の代わりに罪を担い死に、その死の代償として、―戦利品として―信じるすべての人が神の御前に正しい者とされる道が拓かれたのです。
その死に至る道は、ヨハネによる福音書に於いてはこれから、です。大祭司カィアファの不信仰と我欲から出た言葉は、神の真実の預言の言葉ではありましたが、そこに居た最高法院の人々にとっては、現実的に「イエスを殺す」という決定が下されました。
イエス様はもはや公然とユダヤ人の間を歩くことはなく、そこを去り、エフライムというエルサレムから少し北の町に滞在されました。「イエス様の時」はまだ来ていなかったからです。悪意のあるところから、静かに遠ざかるという、ひとつの知恵も感じられる出来事です。
私たちは今、教会に集いひとつとされています。イエス・キリストの名のもとにひとつとされている私たち、この主にある交わり、赦された者としての交わりを、私たちの命の糧として、これからも益々イエス様を愛し、また、私たちの愛する人たちのためにも、熱心に祈り続ける者でありたいと願います。
そして何より、私たちは、イエス・キリスト、神の御子、そのお方の死によって、命を得させていただいている、この計り知れない恵みを、今一度、心に刻みたいと願う者です。