「神から出たもの、人間から出たもの」(2018年10月7日礼拝説教)

ダニエル書3:19~24
使徒言行録5:27~42

 私が劇団の養成所にいた頃、雑学、簡単な哲学のような授業もあったのですが、講義の中で、「学校で学ぶ世界史というものは何だか分かりますか?世界史というのは実はキリスト教の歴史なのです」と話されて、とても驚いたことを今でもよく覚えています。イエス・キリストには子どもの頃からとても親しいものを感じておりましたので、「キリスト教って世界の歴史の中心になっているんだ!」ということが、またキリスト教からは遠い日本人の、およそキリスト教のことを話しそうでない方からの言葉だったのが、嬉しかったのだと思います。
 この言葉は実際真実なのかどうか。「歴史とは解釈である」とはある歴史家の言葉ですが、西洋史を見る限りは、どう解釈を加えようとも、キリスト教が無ければ、国々の成り立ちも、社会制度も、芸術も、文化も、思想も、科学技術の進化も、何もかも、全く別のものになっていたことは確かだと思えます。すべてのことに、キリスト教は関わっています。日本という国では、オウム真理教の事件以来、キリスト教すらも、他の新興宗教も含めたさまざまなものと同列に認識されているところがあり、本当に悲しむべきことですが、キリスト教会は世界の歴史を造り上げて来たのです。
「イエス」というひとりの人が、およそ2000年前、この地に生まれ、30数年を生きて、そのうち3年間、ガリラヤ湖のほとりの小さな村々を中心として、神の国を宣べ伝え、多くの不思議な業と力ある言葉によって人々をひきつけ、人々をひきつけたことによってユダヤ人たちの嫉妬をかうことになり、ユダヤ人たちに扇動されて、ローマ帝国によって捕らえられ、十字架というローマ帝国の政治犯に対する極刑で死んだ―イエス様の地上の生涯をひとことで言うと、このようなことになると思うのですが、その「ひとりの人」が、その短い生涯が、世界の歴史を動かすほどになり、2000年を経た現代、世界中にイエス・キリストの十字架が立てられ、教会が立ち、イエス・キリストに縋って、信仰に生きている人たちが多くいるのです。また古い旧約聖書の律法には社会福祉の原点が見られますし、福祉、教育さまざなことにもキリスト教は主体的に関わり続け、キリスト教会が、無くなることなく、増え広がり、人々を生かし続けている。本当に不思議なことだと思います。
 イエス・キリスト、神のひとり子が世に来られた。この出来事は、まさに「神から出たもの」なのです。そうでなければ、どうしてこれほどまでに世界で繰り広げられることの隅々まで、時を経ても影響を及ぼし続けることが出来るのでしょうか。

 今日は使徒言行録をお読みいたしました。
 使徒言行録は、イエス様が十字架に架けられ、死なれ、復活された後の、イエス様の弟子たちの働きと、イエス・キリストを信じる信仰が、どのように世界に広がって行ったかが、ルカによる福音書の著者であるルカによって書かれた、福音書の続きの出来事が記されている書物です。
 福音書では、イエス様の弟子たちは、皆情けない様子でした。イエス様の最後の晩餐の席ですら、「12人のうちで誰が一番偉いのか」と言い争いをしたかと思えば、イエス様が捕らえられた時には、イエス様を見捨てて、皆逃げてしまったのですから。
 そんな情けない弱い弟子たちが、復活のキリストに出会い、新たに教えを受け、イエス様が天に昇られる姿を見届け、その後、聖霊降臨の出来事によって、イエス・キリストの霊であられる聖霊をひとりひとりが受け、人の思いや人間としての弱さ、性質を超えて、神の力によって新しくされて立ち上がり、初代の教会は形成されていったのです。
 今日の御言葉は初代教会の最初期の出来事ですが、この御言葉の背景には、聖霊を受けたペトロをはじめとする弟子たちが、十字架に架けられたイエスこそが、救い主であるということを、多くのユダヤ人たちの前で説教をし、またイエス様がなさったような多くの不思議な業、癒しの業などを、「イエスの名」によって大胆に為したために、ユダヤ教の大祭司はじめ、サドカイ派の人々が、妬みに燃えて、使徒たちを捕らえて牢に入れたことがあります。
 しかし、使徒たちは聖霊による不思議な業によって、鍵の掛かっていた牢を出て、再び神殿の境内で、何事も無かったかのように人々に、イエス・キリストを宣べ伝えていたために、再び、使徒たちをユダヤ教の最高法院=サンヘドリンに引いて来て、尋問をしているのです。使徒言行録は、使徒たちによる不思議な業が絶えず語られています。

 大祭司はじめユダヤ教の支配階級の人々によって、イエス様は十字架に向かわされることになりました。それは、イエス様のなさった不思議な業、教えを通して、人々が熱狂し、イエス様に多くの人々が従っていたことに対する嫉妬からでした。大祭司たちは、イエス様を殺すことによって、自分たちの権威を脅かす存在は居なくなったと思っていました。しかし、イエスという人の弟子たちが、「イエスの名」を用いて人々に教え、また「イエスの名」を用いて、イエス様が人々に行ったような癒しの業を大胆にしていた。自分たちの権威を脅かす者たちは居なくなってはおらず、その弟子たちが、イエスという人が行っていたことと同様のことをして、人々を引き付けている。大祭司たちのいらだちは相当のものとなっていました。
「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか」
「あの名」とは「イエスの名」です。ペトロの最初に行った奇跡が3章に記されてありますが、それは、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」という、「イエスの名」を用いての奇跡でした。「イエスの名」には、イエス様の権威が置かれており、その名を用いて命令をすると、命令のとおりの事が起こるということが、人々の目の前で繰り広げられていたのです。
 大祭司たちは、イエス様の十字架、イエス様が血を流し、苦しまれ死なれた責任について、「イエスの名」を用いて業を為し、多くの人たちを引き付けている使徒たちが、人々に語る度語っていたと思われる、「あなたがたが十字架につけて殺したイエス」(使徒2:36)という言葉に、恐らく過敏に反応していたのでありましょう。「あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」と語り、自分たちの持っている世の権威によって、使徒たちを脅して、自分達に従わせようといたします。
 しかし、使徒たちはひるまず、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と語ります。このことは、現代の私たちに対しても重い問いかけと思います。私たちは国家の形成などに於いてキリスト教の影響を受けた国に暮らしている訳ではなく、多くのまことの神を知らない人々と国の体制の中に生きている者たちです。キリスト教信仰を持つこと自体を変わった目で見られてしまうということが悲しいかな多くある社会に生きています。
 しかし、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」(二コリント4:18)「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)という御言葉のとおり、心を高く上げて、目に見える権力や支配よりもまず、神のご支配に目を向けて信頼し、自らを委ねる者でありたいと願うものです。

 そのように語った上で、さらにペトロたちは「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます」と、「あなたがたが木につけて殺した=十字架に架けて殺した」ということを語りつつ、「イスラエル=大祭司はじめイエス様を十字架に架けたユダヤ人を悔い改めさせ、その罪を赦すために」と、大祭司はじめユダヤ人たちへの救いを語りました。
 それを聞いた人たちは、激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えはじめました。この時、使徒たちの言葉のとおりに、大祭司たちは悔い改めたならば、そのまま彼らの罪は赦され、世界の歴史は大きく変わっていたことでしょう。しかし人間というのは自分の正しさを挫かれること、また自分に対し、上から物を言われたと感じることがあると、告げられている内容よりも、自分が認められていないことに対し、烈火のごとく怒るという性質があります。特にこの人々は、世の権力を握っていた人々でしたので、そのような性質は、人一倍大きくなっていたのでしょう。

 そのような激しい人々の怒りと悪意に満ち溢れている中、ひとりの人が議場で立ちあがり、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、最高法院の議員たちに向かって語り始めました。この人は民衆全体から尊敬されている律法の教師、ガマリエルという人でした。この人は、紀元25年から50年頃までエルサレムで教えていた有名な律法学者であり、最高法院の議員の一人でもありました。使徒パウロはこのガマリエルのもとで律法を学んだと自ら語っています。また後の伝承では、密かにキリスト教徒になったとも伝えられている人です。
 そして、ガマリエルはその当時起こっていた事件を引き合いに出して語るのです。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自分が何か偉い者のように言って立ち上がり、その飼う四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。その後、住民登録のとき、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆ちりぢりにさせられた。そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい」と。
 テウダの反乱とは、テウダという人が、自分を預言者と称して、群衆を集めて運動を起こしたけれど、ユダヤ総督によって捕らえられ、殺されたとされる事件です。またガリラヤのユダの反乱は、イエス様のお生まれになった時代、マタイによる福音書2:22に、エジプトから帰って来たヨセフ、マリア、イエス様がユダヤで「アルケラオが治めていると聞いて恐れてナザレに行った」記されているのですが、このアルケラオというヘロデ大王の息子が大変な暴政を敷いたために、ローマ皇帝によって流刑され、ユダヤ地方は、ローマ帝国直轄の総督領として取り上げらるという出来事がありました。そのために税金の方式が変わったのです。それが、イエス様のお生まれになった時代の「住民登録」であり、新しい徴税制のために住民登録・人口調査が行われたのですが、その新しい税制に反対して立ち上がったのが、ガリラヤのユダという人でした。
 いずれの出来事も、成し遂げることが出来ず、滅ぼされてしまった。ガマリエルはその成し遂げられず、滅びてしまった原因は、その行動が神の御心から出たものではなく、人間の怒りや人間の思いから起こしたことであったので、滅びたのだと語っているのです。
 そして「あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ」と語り、最高法院の人々は、ガマリエルの言葉に従って、その場で使徒たちを殺すのではなく、鞭打ち、イエスの名によって話してはならないと命じた上で、釈放したのです。
 しかし、使徒たちはそんな迫害にはひるみませんでした。「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、救い主イエスについての福音を告げ知らせ続けたのです。
 
 この後、ステファノという最初の殉教者が出ることになりますが、そのことが起こった迫害によって散らされていった人々は、散らされて行った土地土地で、ユダヤ人のみならず、異邦人と呼ばれるユダヤ人以外の人々にもさらに迫害を恐れず福音を宣べ伝え、イエス・キリストを信じる信仰は、自滅などする由もなく、迫害や苦難にも屈することなく、広がり続けて行きました。
 大きな迫害が度々起こり、数知れない殉教者が出て、また教会の中も、「異なる教え」と呼ばれるさまざまな信仰理解が入って来て混乱するということも絶えず起こりました。パウロは教会内部のこれらの問題ととことん闘った人でした。その内部の闘いによっては、キリスト教信仰とは何か、ということ、何が「健全な教えか」ということが議論されることになり、議論の中で、キリスト教教理というものが深まって行きました。信仰の内容が内部の闘いを通して、纏められていき、2000年を経た今も、当時と同じ聖書が私たちの手元にあり、初期の教会、ペトロをはじめとする使徒たちと同じ信仰を私たちは受け継いで私たちを生かしています。何と不思議なことでしょうか。
さ らに、迫害、殉教者たちの血を乗りこえて、2000年前から数百年に亘って世界の大国として君臨をした、ローマ帝国の国教として紀元380年に認められるに至り、その後もさまざまな問題や混乱、信仰が腐敗をしてしまった時期などもありましたが、それでもイエス・キリストを救い主と信じる信仰は、絶えることなく人々を生かし続けてきました。
どのような人間の脅しも、迫害も、困難も、イエスを主、救い主とする信仰を、滅ぼすことは出来ませんでした。
 イエス・キリストを救い主と信じる信仰、これは、まさしく「神から出たもの」です。私たちは、この神の大いなるご計画、恵み、愛のうちに今、ここに居らせていただいていることを、感謝をもって受けとめたいと思います。

 最後に、私たちの日常の信仰生活の中で、何が神の御心なのか、何が私たち人間の思いから出てきていることなのか、少し考えたいと思います。
 歴史家の方からの、神学校でのある特別講義だったと思いますが、「現実に起こっていることはすべて神の御心だ」という前提で話をされました。このことも、私にとってはかなり衝撃的なことでした。
 しかし、今日の御言葉のガマリエルの言葉のとおりなのではないでしょうか。御心でないことは、すべてその人間の計画は無に帰してしまうと申しましょうか。しかし、自分がこれをしようという夢や計画の段階で、私たちは迷うことがあります。これは神の御心なのだろうか?それとも私の内側からの願望なのだろうか?と。
時々、聖書を開いた言葉が神の御心と思われる方がおられます。きっと時にはそういうこともある。そして御言葉に従うことは素晴らしいことです。そのことで開かれる生き方は確実にある。しかし、聖書を開くたびにそれが、その時の「私」に対する神の御心かと言えば、違うでしょう。聖書はすべてに吟味して読むべきものであって、目に留まった御言葉それ自体が私たちの問題に対し、道を具体的に指し示すというよりも、短い印象的な御言葉も、それぞれ語られている背景があります。
 御言葉の背景も吟味しつつ、御心を待ち望みつつ、忍耐強く、信頼しつつ聖書を読み進める時に、神の愛を知ることでしょう。そして神の愛を受けている者として、神の愛に立ち、自分の望みが実現出来る方向に、祈り求めつつ、誠実にまず歩んでみるべきなのではないでしょうか。そこで開かれる道があることでしょうし、閉ざされる道もありますでしょう。自分の望んでいたそのままのことは閉ざされたとしても、祈りつつ行ったことには、必ず神からの返答があります。新しく拓かれる道があります。
 私たちは、目に映るものではなく、既に神の大いなる御手のうちに生かされています。このことに何より信頼をし、絶えず御言葉に聴き、祈りつつ、日々のすべてのことを誠実に為していく者でありたいと願います。