先週の水曜日は、灰の水曜日。受難節の始まりの日でした。今年は初めて通常の聖書を読む会ではなく、11時から小さな礼拝をいたしました。
人間は神の息がなければ土の塵、灰に等しい弱い存在であること、そのような自らの弱さを覚えつつ、尚且つ罪の悔い改めのしるしとして、昨年の棕櫚の主日に作ってそれぞれ持ち帰り、私たちの罪をキリストの十字架に置かれていることを覚えて一年見つめ続けた棕櫚の十字架を燃やして灰にしたものを、頭にかけました。
前日、棕櫚の十字架を、ステンレスのボールに入れて、外の水道の傍でおそるおそる着火マンで火を点けたのですが、これがなかなか火がつかず、少しずつ、じわじわとしか燃えませんでした。時間を掛けて十字架を燃やしながら、「人間の罪は自分ではなかなか拭いきれない」ということをつくづく思った時となりました。
キリストの御赦しがなければ。