施設にいるある子が食事を食べなくなりました。その子に聞くと「とても不味くて食べられない」と答えたそうです。でも食事は豪華ではなくても美味しく栄養のあるものでした。食事が不味い原因は友達がいなかったからでした。独りぼっちの食事ではせっかくの御馳走も美味しく食べることができません。
この施設での出来事とヨハネによる福音書6章9~15節に書かれている、イエス様が2匹の魚と5つのパンで男性だけでも5千人、女性や子供を加えれば1万人以上の人を満足させた出来事には深いところで関係があるように思います。人は食べ物さえあれば生きられると思っていますが、孤独や絶望にさいなまれれば食事にも魅力を感じなくなります。イエス様が与えたのは命のパン、生きる意味や使命だったのではないでしょうか。
しかしここで神の業を人間が理解できるように矮小化することには問題があります。実際そこにいた人たちは満腹しました。イエス様は神の権能である全知全能をお捨てになり完全な人となられたのですが、その心は父なる神の御心とまったく同じです。イエス様はご自分の言葉を聞くために何も用意せずに集まった人々を憐れんで、パンと魚を取り感謝の祈りをささげられました。人間の目には全く足りていなくても、与えられているものを感謝して人々のために用いることによって神の業が現れ、すべての人が満たされたのです。