マタイによる福音書5章1~12節はいわゆる「山上の説教」と呼ばれています。「心の貧しい人々は幸いである」(3節)といった具合に「幸い」という言葉が並んでいます。
私が洗礼を受けて間もない頃、それまでほとんど聖書を読んでいなかったことを思ってマタイによる福音書の最初から読んでいると、この個所が不意に私の心に飛び込んできました。そして癒されるとともに、いかに自分が罪深い人間であるかを悟り、そんな自分をも救ってくださったイエス様に心からの感謝をささげました。
しかし一方で常識的に考えると、心の豊かな人の方が幸いではないかという疑問が湧いてきます。心の豊かな人や富んでいる人には理解できない言葉あるいは反発を感じる言葉ではないかと思います。
これに関して私はここでのキーワード「幸い」が「祝福された」という意味であることを知り、神は豊かな者ではなく貧しい者を祝福されているということではないかと気づかされました。イエス様は人間的な幸福を「幸い」と言われているのではありません。弱い者や貧しい者は自分の力に頼ることをせず、イエス様が教えてくださった父なる神に頼ります。そのことをイエス様は「幸い」だと言ったのだと思います。一方で、豊かな者や富める者がそれに頼るのではなく父なる神に頼り、豊かさや富を分かち合うならば神は祝福されるでしょう。父なる神にのみ頼るということをイエス様ご自身が示されました。