本田哲郎神父は聖書に出てくる「罪」という言葉を元来の意味に戻って「外れた道」と訳しました。神さまから示された道を外れて生きることを良く表しています。「罪」という言葉は犯罪人を思い起こさせますから、私たちが「罪の奴隷」になっていると言うパウロの言葉はなかなか受け入れることができません。しかし「外れた道に奉仕する人」と訳された言葉を知れば、私たちは「神さまに示された道を歩んでいないな」と思い至るのではないでしょうか。それがパウロの言わんとするところです。本田哲郎神父の訳を少し紹介します。ローマの信徒への手紙6章より。
22今やあなたたちは、外れた道から自由になって、神に奉仕するようになり、聖なる状態に向けて実りを得ています。その行きつくところは永遠のいのちです。
23外れた道のむくいは死であり、好意に満ちた神からの力は、主であるキリスト・イエスと一体となって得られる、永遠のいのちなのです。
人が神さまから示された道を外れて生きるならば、一時的な快楽が得られたとしても空しさから解放されることはありません。もっと刺激を求めようとしても際限はありません。心は渇き空しさが募ります。イエス様が与える命の水は神さまに至る道です。その道を歩くならば人は満ちたります。永遠のいのちに至ります。