先週の説教で悔い改めて死刑に服した石井藤吉さんのことをお話ししたら、「その人は悔い改めて天の国に行ったのだから良かったでしょうが、遺族はやり切れない思いだったのでは」という感想をいただきました。愛する大切な人を奪われた人々のことを思うことは大切なことだと思います。石井さんが遺した懺悔録(『聖徒となれる悪徒』として後日後見人が出版)を読むと、遺族に対するお詫びの気持ちが表されています。
当時の小菅監獄の所長はこの本の序に次のような趣旨の文を書いています。
「この石井藤吉なる男は無類飛び切りの厄介者で悪漢でした。捕えられて遂に死刑の宣告を受けると彼を顧みる者はありません。彼もまた天を怨み人を非難して自暴自棄に陥っていました。その彼が教誨師からキリストの福音を聞かされ、段々と神の光を仰ぐと共に良心に覚醒を起こすようになり、極悪非道なる彼も遂に罪の恐るべきを悟るに至りました。悟ってみれば煩悶苦悩は一通りではありません。…遂に十字架の贖いにより潔められて義人となるの途を見出し、これによって神の恩に浴することができたのであります。彼は最後の時に『この世の掟はぜひともその責任を負うべきが当然かと深く覚悟を決めております。それにしましても神様はキリストの十字架の血潮に免じて、私をお捨てにならず肉体は滅びても魂はこれを受けて謝罪の恵みに入れてくださったこと何たるお恵みでありましょうか』と言い残しました。」
罪を認めず傲慢のまま死刑に処せられるのではなく、キリストの贖いにより罪を認め悔い改めて死刑に処せられた石井さん。遺族は慰められたに違いありません。