キリスト教は言葉の宗教と言われます。神は言葉によって私たちに真理をお示しになりました。パウロは「それゆえ、信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです。…その声は全地に、その言葉は世界の果てにまで及んだ。」(ロマ10:17-18)と証ししています。神ご自身が啓示してくださらなければ、人間は神について何も知ることができません。自分自身を知ることができません。聖書を通して、神はどのようなお方か、人間はどのような存在か、人生とは何か、生きることの意味は何か、死とは何か、人は死後どのようになるのかといったことを私たちは知るのです。
するとここで疑問がわきます。言葉を理解できなければ真理は分からないのでしょうか。神を見出すことができないのでしょうか。
この疑問が生まれるのは、言葉とは日本語のように書き話される言葉であるということが考えの背景にあるからではないでしょうか。坂本九さんが歌った『幸せなら手をたたこう』には「幸せなら態度で示そうよ」という歌詞があります。これは幸せをからだ全体で表すことができることを示しています。聖書の言葉が難しくて理解できなくても、私たちが態度で示す神はどんな人にも理解できます。神の恵み、神の愛のうちに生きる幸い、神の民として共に歩むこの世の旅の喜びなどは私たちの態度という言葉で伝わります。イエス様は言葉だけでなく行いによっても神をお示しになりました。
しかしながら伝える努力は必要です。私たちは平易な言葉で神さまの無償の愛を伝える者にならせていただきたいと願います。