心が痛むほど聖書の御言葉が突き刺さってくることがあります。ヤコブの手紙にはそのような御言葉がいくつも書かれています。
たとえば1章19節には「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」と勧められています。この御言葉を想う時、「聞くことよりも先に話してしまった。怒ってしまった。」と反省してしまいます。2章1節には「人を分け隔てしてはなりません」と勧告されています。だれにでも同じように接しているつもりでも知らずに分け隔てしているのではないかと心配になることや、指摘されることもあります。
私たちは洗礼を受けてキリスト者になっても罪を犯さない正しい人間になったわけではありません。このことは使徒ヤコブも良く知っていたはずです。それなのに人間には出来ないことをなぜ勧告するのでしょうか。使徒ヤコブの勧告はできないことだからと無視しても良いのでしょうか。
私たちは洗礼で大きく変わったことがあります。生きて働いておられる神がおられて私たちを愛してくださっていること、神はいつも私たちと共にいてくださることを知りました。ですから洗礼によって生きる根拠が与えられどんな状況になっても希望を失わない者に変えられました。
神は正しいお方で、そのお方が私たちを導いていてくださいます。使徒ヤコブはその神に信頼して私たちに自分の努力だけでは達成できないことを勧告しています。私たちはヤコブの勧告を為していくことができるように願い祈ることで変えられていきます。このことを信じて祈りつつ、共に御国を目ざして歩いていきましょう。