10月13日牧師室より

一般に、宗教は個人のものであるという考えと、宗教は国家や家族が受け継ぐという考えがあるように思います。宗教は個人の選択という意識は近代社会では常識のようになってきましたが、国家や家族の宗教という考えは今も根強くあります。たとえばイギリスやフィリピンなどはキリスト教を国教としています。イランやイラクなどはイスラム教を国教としています。またスリランカやブータンなどは仏教を国教としています。

宗教は個人のものという考えと国家や家族のものという考えの他に、宗教は「信じた人々のもの」という考えがあります。信じるのは個人の判断(神の招き)ですが、その後の歩みは信仰の家族と共にあるというものです。一人で信仰生活を送るのではないというところにこの考えの特徴があります。この信仰の家族を聖書では神の民と呼んでいます。ヘブライ人という言葉は地縁や血縁によらず神を信じたアブラハムの一族を起源とする言葉です。

ですからヘブライ人への手紙は神の家族、すなわち今日の私たちに届けられた手紙なのです。著者は神の家族の中に神の安息に取り残される人が出ないように(4:1)と語ります。キリスト者はこの世の旅路を歩む業を終えて神の安息に迎えられます。毎週の主日ごとの安息日はそれを先取りしたものです。

私たちには大祭司イエス様が与えられています。私たちが欠け多き者であってもイエス様が執り成してくださっていますから、私たちは神の安息である恵みの座に大胆に近づくことができます。神の家族がだれ一人残されずに一緒に神の安息に入ることができるように祈りつつ、福音に堅く立って一緒にこの世の旅路を歩んでまいりましょう。