11月3日牧師室より

日本語では「良心」の反対の意味を表す語は「悪心」です。これは恨みを抱き悪事をしようとするよこしまな心のことです。ところが新約聖書の原典が書かれたギリシア語には悪心と言う語はなくて「弱い良心」(Ⅰコリ8:7ほか)や「汚れた良心」(テト1:15)という表現が使われています。

ヘブライ人への手紙には「キリストの血(命)が私たちの良心を清めて、生ける神を礼拝するようにさせてくだる」という御言葉(9:14)があります。日本語を母語とする人たちには「良心を清める」という意味が分かりにくいのですが、言語の違いがわかれば、これは「悪心を清めて良心にする」という意味だということがわかります。

良心が汚れると(悪心を持つと)罪を犯すことに後ろめたさを感じなくなります。悪心からは良い行いは生まれません。人は悪心を持たないようにしたいと思いながらも自分の力ではそうすることが困難です。また良心のつもりでもその思いが強すぎると、一方では傲慢を生むことがあり、他方では自分を裁いて絶望へと導くことがあります。

献げ物やいけにえでは人は悪心を清めて良心にしてもらうことはできません(9:9)。旧約時代は祭司がいけにえをささげて罪を赦してもらいましたが、それは不完全で、毎年その儀式を行わなければなりませんでした(9:25)。キリストの命による罪の贖いを信じ、キリストを救い主として受け入れることで人は悪心を清めて良心にしてもらえます。私たちが献金を献げるのは、いけにえの代わりではなく、キリストを信じ罪を赦していただいた感謝のしるしです。