私たちは罪が何であるかを知りません。ひどい目や辛い目に遭ったことは覚えていますが罪を犯したことはないと思っているのではないかと思います。罪の自覚がなければ執り成してもらう必要を感じないでしょう。キリストが天の聖所で私たちの罪を執り成しておられると聖書は語っていますが(ヘブ7:25、8:2、9:24)、そのことが私の救いだと思えなければ感謝することはないでしょう。
預言者エリヤが遣わされたサレプタというところには夫に先立たれた女性と息子がいました(王上17章)。エリヤはこの女性に「壺の中の小麦粉は尽きることがない」と告げ、果たしてその通りになって女性と子どもは救われました。この女性には何の罪もなさそうに思えます。しかし聖書は神に求めることをしてないで諦めていることに罪があると示唆しています。
ある神学者は次のような文章を記しました。『イエスが「父は私たちの最も深い困窮をご存知である」と父を示されるとき、イエスはちょうど母親が、痛みを感じている小さい子どもを見るようにわれわれ人間を見ておられるのである。(略)父は憐れみ深くあられるので、主は、主を恐れ困窮のただ中で主に呼び求め、しばしばまったく誤った祈りをする者をも憐れまれるのである。』
困窮のために将来を悲観したり人生を諦めるならば罪に陥っているのです。キリストは天の聖所で父なる神に執り成して悲観することや諦めることから救ってくださいます。このことを信じるならば父と子と聖霊の神への感謝が芽ばえてくるでしょう。