11月24日牧師室より

ヨハネの黙示録1章6節に「(キリストは)わたしたちを王としてくださった」という言葉があります。この王とはどんな王でしょうか。ペルシャのスルタンやインドのマハラジャのような姿が脳裏に浮かんできませんか。あらゆる贅沢と全てのものを支配する権力を持っている王です。

しかし信仰者が立派な王であるのは金の冠を頭に載せているからでもなく、絹やビロードや金の刺繍の衣装や、紫の衣を着て悠々と歩くからでもありません。信仰者が本当に素晴らしいのは、死や悪魔、地獄やあらゆる不幸の上に立つ主人だからです。宗教改革者マルティン・ルターはこのように書きました。

ナチス・ドイツに抵抗して終戦間際に死刑となった牧師ボンヘッファーの『私は何者か』という詩には「領主が自分のやかたから出て来るように獄房から私が出て来ると人は言う」という言葉があります。しかし彼は現実には独房の中に入れられた囚人です。その人を他の囚人が王のように見ようと囚人であることに変わりはありません。

ボンヘッファーは詩の最後にこのように書きました。「私は何者であるにせよ、ああ神よ、あなたは私を知り給う。私はあなたのものである」。

キリストが私たちを王にしてくださったということは私たちが王のようにふるまうことではなく、ご自分の命によって罪から解放してくださったキリストが一人ひとりを本当の意味で知っていてくださることの安心にあるのではないかと思います。その安心(魂の平安)が私たちを王にします。