2月16日牧師室より

牧師は礼拝の最後に祝祷をおこないます。これは牧師が祝福をもたらす力を持っているというのではなくて、主イエス様ご自身が私たちを祝福して下さり、牧師はその取次ぎをしているのです。主は次のように祝福しておられます(ルカ6:20~23)。

「貧しい人々は、幸いである、

神の国はあなたがたのものである。

今飢えている人々は、幸いである、

あなたがたは満たされる。」

しかしこの主の言葉を誤解して受け取ると貧しさや飢えを我慢し独善の思いで自分を支えようとしてしまいます。自分は幸いなんだと無理に思い込もうとしてしまいます。その思いは自分で支えられるものではありません。私たちが貧しさや飢えや迫害を受けている時に満足する理由は何もありません。

まさにこのときに私たちは主により頼むほか手立てがないことを知るのです。貧しい者、飢えている者、あるいは迫害を受けている者に主は目をとめてくださり祝福してくださっているのです。このことが分かると幸せは自分の身近にあるということに気がつくのではないかと思います。アウシュビッツ収容所で死を待つ人々は夕陽を見てその美しさに感動したといいます。人の心は何ものにも囚われてはいません。

一方、満足している人々は主の祝福を必要としていません。すでに報いや慰めを受けています。それでいてまだ足りないと思っています。あるいは自分が蓄えたものが減ることを恐れます。それは心が平安ではないということです。

満たしてくださる方を信頼して、置かれた状況の中で、主を信じて、自由な心で生きるならば、その人は祝福されています。