創世記のヨセフ物語は有名で子どもたちにも人気があります。ヨセフはエジプトに売られて奴隷になり、その後にファラオに次ぐ宰相にまでなった人です。しかし父ヤコブや末の弟のことを思って悲しんでいました。時が過ぎてエジプトやユダヤで大飢饉が起こった時に兄たちがエジプトに食料を求めてきました。ヨセフはこの時のために神が自分をエジプトに遣わしたのだということを悟り、「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」(創45:8)と兄たちに告げました。
この神によるヨセフのエジプト派遣はイエス様がこの世に遣わされたことを前もって表しているように思われます。イエス様が霊能者や奇跡を起こす人ではなく父なる神がこの世に遣わされた御子なる神であることは「イエス様の洗礼」(ルカ3:21-22)や「イエス様の変容」(ルカ9:28-36)によって明かされています。洗礼の時には「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえ、変容の時には「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声が聞こえました。
変容の出来事ではモーセとエリヤが現れ、イエス様がエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していたと記されています。この「最後」という言葉は原典では「出発」(エクソドス)という言葉が使われています。イエス様にとって十字架の死は父の許に戻る出発なのです。この「出発」は出エジプト(英語エクソダス)のことです。
死が出発であるというのは私たちにとって希望ではないかと思います。私たちも神さまに招かれて朽ちるものを脱ぎ捨てて(Ⅰコリ15:53)神さまの許に出発するのです。