6月22日牧師室より

40歳頃に不惑ということを考え、惑うことなく生きなければと思ったことを思い出します。論語では60歳は耳順(人の言葉を素直に聞き入れることができること)だそうです。70歳を超えた今、自分が惑い、人の言葉を素直に聞けない者であることを思います。きっと許されて長く生きたとしても不惑や耳順にはなれないだろうと思います。孔子の言葉が間違っているというのではありません。人間は惑いやすく耳順になり難いから、なおさら人生の節目に思いを新たにするという人生の戒めだと思います。

このような人間が人生は生きるに値すると思って生きることができるのは、どう考えても自分の力ではありません。努力して不惑や耳順になることができるならどんなに良いでしょう。しかし自分の力ではなれないのです。

悪霊に取りつかれた男はイエス様に遭遇すると「いと高き神の子イエス」と叫びました(ルカ8:28)。悪霊は「かまわないでくれ」と彼に言わせましたが、彼自身は目の前にいるお方に救ってもらい解放されたいと願ったことでしょう。

この人はもしかしたら惑いやすく耳順になり難い人間の代表として登場したのかもしれません。孔子は「70にして心の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず」と言いましたが、私たちは幾つになっても(良い意味で)凡人であり悟りを開くことはないと知ることが知足(足るを知る=満たされる)ではないかと思います。「いと高きお方」に守っていただくことこそが安心です。このお方を讃え、このお方に従って人生の旅路を進んでいきたいと思います。