現代の人々は自由がとても大切だと考えていると思います。この「自由」という言葉は古代日本や中国では我儘放蕩(わがままほうとう)という悪い意味だったそうで、たとえば徒然草には「よろづ自由にして、大方、人に従うといふことなし」という文章があるそうです(Wikipedia)。
ルカによる福音書20章9~19節に出てくるぶどう園の農夫たちはこの悪い意味の自由に生きた人たちと言えるでしょう。本来のぶどう園の持ち主は農夫を雇った主人なのに、それを軽んじて収穫物は自分たちの働きによって得たものだと考えました。それで使いの者を追い返し、3度目に来た主人の一人息子を殺してしまいました。極端な話ですが、これが農夫たちの自由、すなわち我がままでした。この農夫たちに裁きがおこなわれるのは当然です。
英語には自由を意味する語が2つあります。古代日本の自由とほぼ同じ意味のフリーダム(freedom)と束縛からの解放を意味するリバティ(liberty)です。この後者は福沢諭吉が日本語訳にする時に適当な語がなくて「自由」と訳したことから意味的混乱が生じました。「自由に生きる」という表現は前者の意味です。「自由を取り戻す」という表現は後者の意味です。
イエス様は「人間が〔我がまま〕で〔束縛から解放〕してくださる神を軽んじるならば裁かれる、だから神を重んじなさい」と諭しておられます。このようなことをご自分の命に代えて教えてくださったイエス様の誕生を待つ待降節が近づきました。