ベネズエラでの出来事から間を置かず、イスラエルとの協力体制のもとで行われた米国のイランへの攻撃は、政権の中枢のみならず、幼い子どもたちの命までも奪う結果となりました。この決断を下した人々やそれを支持する人々は、自らの行為を「正義」であると考えているかもしれません。しかし、聖書が伝える神の言葉は「殺してはならない」と私たちに告げています。
キリスト者は、「神の武具」を身にまとい、悪に対して毅然とした態度を持つ必要があります。エフェソの信徒への手紙6:11-12にはこう記されています。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」。
『嵐の中の教会』という書物の中に、深い示唆に富んだ一節があります。「神様を恐れる者となる時、その人は神様に対して自分が責任を負う者とならなければならないということ、また私たちの上には私たちから弁明を求め給うお方がいまし給うということを知るようになります。これとは反対に、人間が(独裁者となり)神様にされてしまうと、そういう人間は正義と不正を自分で決定することを求めるようになります。それこそヒトラーがやったことです。」
自分の正義を力で押し通そうとする心の奥底には、決して満たされることのない「渇き」があるのかもしれません。その心の渇きは、ときに人を誤った方向へと導いてしまいます。ヨハネによる福音書4:14が教えるように、キリストとの出会いはその心の渇きを癒やします。人は、探し求めさえすれば、必ずキリストを見出すことができるのです(使徒言行録17:27)。武力による解決ではなく、互いの心の渇きが癒やされ、真の平和が訪れることを願って止みません。