イザヤ書50:4~9
ルカによる福音書22:39~53
今週の水曜日から受難節に入りますが、それに先駆けて、今日からイエス様のご受難の時をルカによる福音書を通して読んで行き、ルカによる福音書を読み終えたいと願っています。
ヨハネによる福音書は、14章の途中まで読み、最後の晩餐の出来事に入っておりましたが、その後、イエス様の告別説教と言われる御言葉が、17章まで続きます。今日からお読みする御言葉は、ヨハネとルカで違いはありますが、時系列では続いています。イエス様は、最後の晩餐の席から立ち上がられ、「そこを出」たところから、今日の御言葉は始まるのです。
「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」、お読みした最後53節でイエス様は言われました。ルカ22章では、ユダヤ教の祭司長や律法学者がイエス様を殺す計画を立てており、その時、「イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」と語られています。「闇が力を振るう」中、サタンが力を振るう中、イエス様は十字架へと歩まれようとしています。
エルサレムに行きました時、「最後の晩餐の部屋」と呼ばれる家に行きました。その建物を出たところに、オリーブ山に向かう石畳の階段がありました。エルサレム旧市街のほとんどは、古い町が戦争などで崩されて、その上に、積み上げるように新しい街が造られていて、2000年前のイエス様の時代の土地は、殆ど残されていないのですが、その石畳は非常に珍しい2000年前のままのものでした。最後の晩餐の部屋と言われる建物自体は、十字軍の建てたものだそうで、今から1000年近く前の建物ということになるようでした。
2000年前のものというその石畳を踏んだ時、本当に興奮したことを覚えています。建物自体は実際最後の晩餐の家ではないにせよ、エルサレムからオリーブ山に向かうこの石畳の道を、イエス様はまさにその御足で踏んで、歩いて行かれたに違いない、同じ石を踏んでいることを想像したからです。「イエス様の歩かれた石」!嬉しい体験でした。
さて、この日は過越祭の日でありました。実は、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書と、ヨハネによる福音書には、最後の晩餐の日、またイエス様の十字架の日が一日ずれているのです。どちらが実際であったのか、分かりませんが、ヨハネに於いては、共観福音書よりも1日早く、最後の晩餐は「過越祭の前」、すなわち過越祭の前日の食事であり、その翌日の昼に過越祭のために屠られる小羊として、イエス様は十字架に架けられたと語られていました。共観福音書では、過越祭のために屠った小羊を食べる過越祭の食事としての、最後の晩餐が語られており、イエス様の十字架は過越祭の最中に為されたという理解がなされています。
ルカ21章によれば、イエス様はエルサレムに入城された後、日中は神殿の境内で教えられ、夜はゲツセマネと呼ばれる、オリーブ山で過ごされていたと記されていますが、過越の食事を終えられたイエス様は、その後「いつものように」オリーブ山に向かわれ、弟子たちも従いました。
今日の説教題を「ゲツセマネで」とさせていただいたのですが、マタイ、マルコでは、「ゲツセマネ」という名の場所を語りますが、実にルカはここがゲツセマネであるということは語っておりませんでした。ルカはその名前には拘らず、「オリーブ山」と語っています。ゲツセマネとは「油絞り器」という意味の言葉で、オリーブの実の油を絞るところ、オリーブ山を指しています。そして、そこにある「いつもの場所」にイエス様は着かれました。イエス様は、退かれ山で祈っておられたということが、いくつか記されてありますが、エルサレムではいつもこの場所で、祈っておられたのでしょう。父なる神とイエス様はひとつ。しかし、イエス様は地上にあって、絶えず、父なる神に祈っておられたのです。
イエス様のこの時の様子はいつもとは違っておられました。マルコによる福音書によれば、イエス様はこの時、「ひどく恐れてもだえ始め、わたしは死ぬばかりに悲しい」と弟子たちに語られたことが記されています。しかし弟子たちは、過越の食事を食し、ぶどう酒も飲んで、お腹は満たされ。酔いも回ってもいたのではないでしょうか。オリーブの木の下で、春の風も心地良かったのではないでしょうか。イエス様のただならぬ様子に恐れを抱きつつも、しかし、満腹感とお酒の酔いの方が勝ってしまっている、そんな弟子たちにイエス様は言われました。「誘惑に陥らないように祈りなさい」と。
「誘惑」ということ、この言葉の、ギリシア語の原語の意味には、「試練」という意味もあります。私たちは心地良さや、楽しさ、楽なこと、それらの誘惑に弱いものです。何かを為すべき時、楽に思える選択が私たちの前に置かれる時、それは誘惑でありましょう。誘惑はその時試練となります。自分で誘惑に駆られる思いを制御し、なすべき善き業のために心を向けるために、祈ることが必要だとイエス様は語られるのです。
そして、弟子たちから「石を投げて届くほどの所」にひとり離れられ、自ら跪いて祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と。
「杯」とは、審判を表すものです。この時、祈るイエス様の前には、審判の杯が差し出されていた。父の手から、「この杯を飲め」と。それは、すべての人間の罪に対する神の審判、裁きの盛られた杯。それらのすべてがイエス様の前に父なる神から差し出されていたのです。それは、どれほど苦く、恐ろしい杯であったことでしょうか。それを飲み干したならば、イエス様の上に、すべての人の罪が置かれ、さらに神の裁きが下されるのです。また、イエス様はルカ22:37で、イザヤ書の言葉を引用され、「『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書いていることは、わたしの身に必ず実現する」と語っておられましたが、世にあって犯罪人とまでもされる、それがイエス様の十字架なのです。
イエス様は、神が人となられたお方であられました。その意味で完全な神であられながら、同時に、私たちと同じ弱い肉体を持った完全な人であられました。完全な人として、私たちと同様の肉体を持ち、肉体の痛みや苦痛を知るお方であられた。完全な人であられたからこそ、人の罪をその身に帯びて、私たちがそれぞれの罪に対する神の審判の杯を私たちに代わって飲み干し、私たちの贖いとなることがお出来になるお方だったのです。
それと同時に、私たち人間は罪があり、イエス様には罪は無いという違いはあるにせよ、私たち人間と同じ心、恐れ、悲しみ、怒りをも持つお方であられました。イエス様に、死の恐れは無かったのか、と言えば、「あった」のです。完全な人として、イエス様は、この時、死を恐れておられた。私たちが、死を恐れるのと同様に。この時、イエス様の願いは、「御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」という願いでした。イエス様は苦しみ喘がれ、汗が血の滴るように地面に落ち、祈られたのです。どれほどの激しい祈りであったのでしょうか。苦闘という言葉が似つかわしいほどの、激しい、苦しみ抜く闘いだったのではないでしょうか。
また、まことの祈りとは、激しく悶え苦しみつつ、自分の思いではなく、神の御心を求めることなのではないでしょうか。苦しみ悶えつつ、神に祈るということ、それは自分に与えられた運命のようなものにただ負けるのではない。勝つために神に対して悶え苦しみ祈るのです。イエス様は、勝つための闘いを、苦しまれ、汗を血のように滴らせるほどに、闘い抜かれたのです。そして、そのようなイエス様の祈りを、天使が現れて力づけたと語られています。
世には無残な、悲しみの極まりの死があります。イエス様は、その極まりの死を、十字架の上で腕と足に太さ6センチもの釘を打たれる、そして時間を掛けて苦しみぬいて死ぬ、そのような十字架の死を、人間としてこれから迎えようとされていた。十字架には、すべての人の罪に対する審判の杯が盛られている。
イエス様が、完全な人であられたということは、私たち人間の苦しみ痛みを、その身に味わい尽くされたということであり、また、私たちが苦しむ時、その苦しみのすべてを神が、インマヌエル、神共にいますというお方であられるイエス様が、その苦しみを私たち同様に知り抜かれ、苦しみの中に共にいてくださるということです。
激しい苦しみの祈りのうちに、イエス様は、差し出された杯を飲み干されました。そして祈り終わり、立ち上がられました。「立ち上がる」、原語の意味は、復活するとも言い換えられる言葉です。イエス様は、これからご自身の上に起こる肉の苦しみ、死の恐怖、それらのすべてを汗が血のように流れるほどに父なる神に向かって祈られ、闘われ、神にすべてを注ぎ出し、父なる神の御心を喘ぎ訊ね求めた末に、神の子としてのご自身の使命に立ち上がられたのです。そして弟子たちのもとに戻られると、弟子たちは「悲しみの果てに」眠り込んでいました。
「悲しみの果てに眠り込む」これはどういう状況でしょうか。ただ肉体的に疲れて、また酔っ払って眠り込んだということではないでしょう。悲しみの中で、人間は希望を失ってしまう。霊に於いて眠りこけ、信仰が鈍るそのような弟子たちの状況を表しているのではないでしょうか。
イエス様にはこの時、祈りの助けが必要でした。天使がイエス様を力づけましたが、イエス様が何より求められたのは、弟子たちの祈りの助けであったのではないでしょうか。そして、まことの祈りは、ひとりで成し遂げられるものではないのではないでしょうか。イエス様であられても、人の祈りを必要とされたのです。
ましてや、私たち、弱い人間は、自分に与えられた問題に対し激しく悶え苦しみながら、それに勝利を求めて祈る時、祈りの助け手が必要でありましょう。それは、教会共同体の働きでもあります。目の前の状況に動揺し、悲しみの中で、祈る力が奪われ、霊に於いて眠ってしまう弱さを持っている私たち人間です。そんな私たちにも、イエス様は、「目を覚まして祈っていなさい」と告げておられます。また、祈られるイエス様を、また悶えつつ祈る人を助ける祈りが必要であることも、告げておられることを思います。
そしてまことの祈りとは、自分の思い、願いを達成することを一番に求めることではなく、神の御心をたずね求めることでありましょう。イエス様は、苦しみの中で「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました。それは、私たちの祈りでもあるべきです。
「ヘブライ人への手紙」5章7節にこのような御言葉があります。「キリストは、肉において生きておられたおき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救うちからのある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度の故に聞き入れられました」。祈りと「取り除けてください」という願いを祈られましたが、神の杯は取り除けられず、イエス様は十字架へと向かわれることになりました。しかし、「祈りは聞き入れられた」と語られているのです。
まことの祈りには、神の御心が表されるのです。イエス様は御心を受け入れられ、すべての人の罪をその身に負い、十字架へと向かわれました。それは、イエス様の激しい祈りが聞き入れられた結果でありました。
私たちも悶えるほどに祈る時があるかもしれない。いえ、あるべきです。誘惑に陥り、祈る力を奪われて眠るのではなく、祈るのです。また、そのように祈る人を、私たちは祈りによって支えなければなりません。そして祈りのうちに、目の前に示される現実がありましょう。それは、「祈りが聞き入れられた」こと、神の御心に違いないのです。
イエス様が弟子たちに話しているその時、闇の中から祭司長、神殿守衛長、長老たちと共に群衆が現れ、その先頭にはユダがおりました。「時」が来ました。そして、イエス様のところにユダは接吻をするために近づいて来ました。接吻するその人がイエスだ、というしるしを見せるためです。
接吻、愛と信頼、友愛のしるしです。愛のしるしは、この時、裏切りのしるしとなりました。愛の行為をもって、裏切りが現れた。人間関係の中にも、このような心の芯から冷える、そのような瞬間があり得ます。イエス様は、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われました。この時、イエス様はどのように心が高まり、言い知れない悲しみに襲われていたのかを思います。
その時、ひとつの事件が起こりました。イエス様の周りにいた人々―弟子たちは、イエス様を捕らえようとする人々の様子を見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言い、その中のひとり―ヨハネによる福音書ではペトロであったと語っています―が、大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落としたのです。闇の力が振るっているこの時。弟子たちも闇の中で、恐怖に駆られながら、剣を取り、人を傷をつけた。おそらく弟子たちはこの時、恐怖に強張り、平常心を失っていました。剣を持って近づいて来た人々に対し、剣を取り、切りつけてしまった。
闇の力の中で、自分も殺される恐怖の中で、人は剣と剣で戦い合う。私はこの場面を読む時、戦争中、戦地にあって、ただ戦争の敵国の者であるという理由で、知りもしない人間同士が互いに殺し合ってしまう、えも言えない、闇の中で人間としての尊厳も人格も喪失をしてしまう、人間の弱さ、罪、悲しさを思います。
それに対し、イエス様は「やめなさい。もうそれでよい」と言われ、その切り落とされた耳に触れて、癒されたと言うのです。イエス様は癒し主であられる。それと同時に、この時、切り落とした弟子の罪を、イエス様は拭われたのだと思うのです。憎しみは憎しみの連鎖を生みます。それをイエス様がここで癒しの業を行われることによって、連鎖を断ち切られた、そういうことだったのではないでしょうか。
そして言われました。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒に居たのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」と。
闇の力が猛威を振るい、イエス様は十字架へと向かわされます。それは「あなたたちの時」であるとイエス様は仰いました。罪の世にあり、闇の力に翻弄される人間。この時、イエス様を捕らえようとやってきたのは、ユダヤ人の指導者たちでした。本来は祈りの人であるべきはずの人々です。その人々が、闇の力に翻弄され、突き動かされるように、信仰に死に、罪の誘惑の中で、いえ、誘惑とは言えない、もう自分たちの意志によって、暗闇の力を選び、そこでイエス様の命を狙っている。人間は憎しみという感情に駆られて動くことは容易いことです。イエス様は弟子たちに「誘惑に陥らぬよう、起きて祈りなさい」と言われました。闇の力は強い。はっきりとそれを拒絶する意志を持たなければ、人間はやすやすと罪の奴隷となってしまいます。イエス様は、弟子たちがそのような罪の奴隷となり、闇の力に加担する者にならないよう、強く「誘惑に陥らないように祈りなさい」と強く言われたのではないか、そのように思います。
暗闇は、今も、私たちを襲うことがある。イエス様の十字架への道、イエス様の御苦しみを思いつつ、私たちはさまざまな問題が起こる時、祈りを深める者でありたいと願います。苦しみから逃げるのではなく、自分の苦しみを神に苦闘しつつも打ち明け、神に御心を訊ね求め、神の御旨のうち、立ち上がり、生きる者でありたい、そのことを強く願います。