礼拝説教「神を見上げつつ」(2021年9月12日)

敬老祝福礼拝「神を見上げつつ」 コリントの信徒への手紙二5:1~10
原田史郎牧師
 日本は世界でトップの高齢化社会です。2020年高齢化率は28.7%でした。65歳以上の方は3617万人で前の年より30万人増えました。この内、男性は1573万人、女性は2044万人で男性より471万人多いことになります。
 でも幸いなことに、平均寿命は過去9年間連続のプラスで、女性は87.74歳、男性は81.64歳となりました。
 このことは、私たちが老齢期をどのように生きるのかという、生き方を提起しているともいえるでしょう。
 パウロは、「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています」といいます。これはわたしたちの体がやがて死を迎えることで、「滅びる」の原意は解体する、壊す、駄目になることです。砂漠の民の天幕は、移動のときや激しい風雨や強い陽ざしに晒されて劣化し、解体されたり処分されたりします。若いときには輝と光を放っていた人も、歳を重ねるに従い、身体のあちらこちらが痛んだり、機能が衰えたりします。友の訃報を聞くことが多くなり、二人三脚その労苦を分かち合ってきた配偶者にも先立たれる人もいるでしょう。
 しかしキリスト者は、これが生涯の最後ではありません。幕屋は滅びても「人の手で造られたものではない」即ち神ご自身の創造による「天にある永遠の住みか」が備えられているのです。それは「瞬く間に飛び去る70年80年(詩編90)」とは比較の出来ない大きな祝福です。わたしたちはこの住みかを受けたいと願い「地上の幕屋にあって苦しみもだえています」。それはかつてエジプトで奴隷であったイスラエルの民の呻き(出エジプト2章24節)であれ、サタンによって暗黒の力に支配されている人々に対する主イエスの深い嘆息(マルコ7:34)にも似たものです。
 でも「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。」。着ているものを脱ぐことは死を意味します。死は一見、全ての苦しみから解放するかのように見えます。でも死は怖れでもあります。パウロもわたしたちも重荷を負ってうめいてはいますが、このような死に向かい合うのではありません。わたしたちの信仰は「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられた住みかを上に着たいから」なのです。死すべきものが命に飲み込まれてしまうのです。キリスト者にはこの将来の命と栄光(栄化)が約束されているのです。
 先日テレビで世界遺産のドキュメントを見ました。一面の荒野で水の一滴もない乾ききった砂漠が広がっています。ところがある時期、雨が降り湖が出来、晴れるとこの死の荒野に草が生え、ついには百花繚乱と花まで
もが咲き出しました。するとこの水と植物を求めて多くの生きものたちが集まってきました。かつて死の場所であったところが、天からの慈雨によって一瞬のうちにいのちに満ちた楽園に変ったのです。
 地上の幕屋はいつか滅びます。だが滅び、死が来ようとも、神の創造による復活の命、圧倒的な命が滅びも死もすべてを飲み込んで勝利するのです。
 そしてこの希望のために「神はその保証として“霊”を与えてくださったのです」。保証、担保は普通商業上の手付金や契約金を表す用語です。全額ではなくても保証金が支払われることによって、物件が支払者のものになります。でもパウロはここで、単に全体の一部としての保証というよりは「御霊という保証」を神が与えてくださったことを語っているのです。この滅びゆく地上のわたしたちを命を与える御霊が生かしてくださる。そうであれば「『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされています。(4章16節)」という現実がわたしたちの歩みになるでしょう。
 主イエス・キリストによってもたらされたこの大いなる救いを感謝しつつ、主に信頼し、従う日々を歩みたいものです。