ミカ書6章6節~8節、エフェソの信徒への手紙4章17節~24節
「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(新共同訳聖書、ミカ書6章8節)
帰郷で得たもの
今年は神学校の卒業生研修会が郷里の福岡で開催されたことから、私は久しぶりに郷里に帰り弟夫婦を訪ね、兄弟との交わりを持つことができました。大変貴重な時を与えてくださった皆様に感謝いたします。
郷里では潜伏信徒の里を初めて訪ね、いくつかの遺品を見ることができました。潜伏信徒は長崎や天草が有名ですが、福岡県にもあったのです。そこで紙の踏絵を初めて目にしました。その紙には「キリシタンバテレンを踏まざる者獄門のこと」という文字と十字架とキリストの顔が描かれていました。それを見ると当時の信徒たちがどんな思いで踏絵を踏んでいたのだろうかと苦しい気持ちになりました。それと同時に、そのような思いをしてまで信仰を保ち続けた信徒たちの信仰に思いを寄せました。戦国時代の戦乱の中で人の命が簡単に奪われていく、また幼子が死んでいくという状況の中で、キリストの教えである永遠に変わらない命に対する希望は信徒たちを励まし勇気づけたことでしょう。その信仰を持ち続けるということは永遠の命を持ち続けるということではないかと思わされました。
もう一つ、郷里で見たものは中村哲兄がアフガニスタンのマルガリード堰(ぜき)築造の参考にした山田堰です。私は子どもの頃からこの堰を知っていましたし風景として見ていたのですが、これがそんなに凄い技術だとは知りませんでした。三大暴れ川の一つである筑後川が緩やかに蛇行するところに長さ320メートルもの傾斜石張り堰が造られていました。見に行った日は雨で増水していたので堰の全貌を見ることはできませんでしたが、大河の中に人力で岩を積み上げて水が取水口の高さに上がるようにしている様子や、取水口が水流で壊れないように巨岩に孔を開けて造った水門を見ました。
中村兄は、用水路を建設する前から、現代日本の最先端土木技術で用水路の取水口を建設してもアフガニスタン人が維持・補修することはできないという課題に向き合いました。それはアフガニスタンに建設した用水路はアフガニスタン人のものという意識があったからだと思います。山田堰につくられたモニュメントの説明によれば中村哲兄は日本各地の取水口を訪れ、最終的に生まれ育った土地につくられた堰にたどり着いたのだそうです。彼の執念は「100の診療所より1本の用水路」という言葉にあらわれています。多くの献金を集めながら中村兄は貧しい不便な生活を続けました。多くの人々を指揮しながらも自らショベルカーを動かし巨大な岩を川の中に置く一人の建設労働者でした。
主なる神が求めておられること
預言者ミカは「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」と主の言葉を告げました。旧約の時代に人々は神殿に参り、犠牲をささげていましたが、主は犠牲の献げ物を喜ぶのではなく、人が犠牲の献げ物を献げる時にへりくだる心、主に立ち帰る心を見ておられたのでした。
正義とは主の御旨に従うことであり、慈しみはキリストが示されたような自分の体に痛みを感じるほどに相手を思う心であり、へりくだるとは自分を主の前に低くすることです。主は私たちにそのような生き方をすることを求めています。私たちがそれを完全に行うことができるかどうかは問題ではありません。私たちは肉体という限界をもった存在ですから、主は私たちに完全を求めてはいません。自分が完全ではないことを認めて、それでもなお「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩もう」と努力することが求められているのであります。奨励や証しで皆の前に立つ人も、潜伏信徒たちも、中村哲兄のように働く人も「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩んでいる人々」であります。
パウロはエフェソの信徒への手紙4章22節で「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着けなさい」と勧告しています。脱ぐとか身につけるという表現はそのものとつながることを意味します。ですから古い人、すなわち欲望や傲慢を捨て、キリストにつながる新しい人を身につけることを勧めています。これはいわゆる洗礼によって古い自分が死に、新しい自分に生まれ変わることを意味しています。私たちは主に従うことを決意し、洗礼を受けて、何か成し遂げたいとか有名になりたいといった欲望を捨て、また情欲に溺れることから解放されました。そしてイエス様が示してくださった父なる神の愛や永遠の命に触れてイエス様につながる新しい人を着ました。
その共同体である教会もまた主の御旨に従い、すべての人のことを思い、主にへりくだって歩むのです。私たちは主が教会と共にしようと欲しておられる大きなこと、また教会に求めておられる大きなことに目を開かなければならないことに気づかされます。キリストはこの小さな共同体である教会と共に偉大なことをしようとしておられます。
研修会で出会った人たち
研修会では二人の牧師に出会いました。一人は、筑豊炭鉱で50年牧会し、戦中に朝鮮半島から日本人として強制連行されて炭鉱で働かされ、日本が戦争に敗れると外国人とされてしまった炭鉱夫たちと共に暮らした犬養光博牧師です。犬養牧師は日本に住んで苦しみの中にいる人々と共に希望の灯をともし続けて歩まれました。一言では語ることのできない人生だったと思いますが、犬養牧師はそうせざるを得ないものをキリストから受けたのです。彼は「教会にはまだ足りない人がいる」と言われました。そして教会のことを欠如体であると言われ、まだ見ぬ仲間や苦しみを共にする仲間が揃っていないという感覚を大切にされていました。
もう一人は谷本仰牧師です。谷本牧師は「みんなの教会」という教会のありかたを教えてくれました。この谷本牧師の教会では2018年のコロナ感染症が始まった頃から教会の前にひとつの机を置いてその上に日持ちする食料や日用品を置いて自由に持って行ってもらう「みんなのつくえ」というのを始めました。きっかけは親しくしているパン屋さんから食べきれないほどの沢山のパンが送られてきたのでそれを机の上に置いて無料で持って行ってもらったことだそうです。するとそれから次々に日持ちのするものが寄せられるようになって、プレゼントする人と持って行く人とで良いバランスになったそうです。それが今まで続いているというのです。谷本牧師はこのことでとても重要なことを発見したと言われました。それは「人は贈りたいという欲求を持っている」ということです。このことを彼は色々な文献を調べて、ある経済学者が「贈与経済」と呼んで提唱しているものがあることに気づいたそうです。何かを手に入れたら何かを払うという交換経済の仕組みの中では常識外れだと思われるでしょうが、谷本牧師はこの贈与経済で社会が回ることを発見したのです。
犬養牧師は多くのものを得たと話していましたが、それは与え続けたからのことに違いありません。谷本牧師は目に見えるものを通して、与えることによって多くのものを得ることを実証しました。
新しい生き方
新しい人を身につけることは、このように新しい見方でこの世界を見ることができるようになり、そこに主なる神が働いているのを認めるようになることなのではないかと思います。「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む」とは私たちの仲間がまだ教会の外にいるということを忘れないということであり、教会はみんなのものだということであります。この理解の上に立って、教会は新しい生き方を発見し、まことのキリストの体となるでしょう。