10月30日礼拝説教「み言葉は魂を潤す」

聖書 エレミヤ書31章10~14節、マルコによる福音書13章10~13節

楽しい集い

本日、季刊誌「風」が発行されました。昨日はその印刷と製本のために編集委員の方や協力してくださる方が集まり作業をしました。お昼になり皆で食事をしたのですが、皆で和気あいあいとして、大きな窓から公園の木々が見えて天気も良くて暖かくて、まるでピクニックをしているみたいでした。私たちが自分のためにではなく他者のために何かをする時に、このような喜びにあふれます。そこには主を中心とした暖かな交わりがあります。

私たちがなぜ「風」を作って発行しようとしているかというと、私たち一人ひとりが得た恵みを一人だけのものにしないで皆で分かち合うためです。私たちの人生はそれぞれが置かれた場所で歩むものですけれど、神の民である私たちはそのような一人ひとりの人生を共有して生きていくのです。一人で生きていくのではありません。神と共に、神の民として生きています。

エレミヤに託された神の言葉

今日の預言者エレミヤに託された神の言葉に「主なる神はイスラエルを集め、解き放ち、贖い、嘆きを喜びに変え、慰め、喜びを与える」という言葉がありました(エレ31:11~14)。そのことが私たちの日常の中で実現していくわけです。

今日、礼拝に集まり、御言葉を聞いたり主を賛美することも喜びです。何か難しい話を聞くのではなくて、神様が私たちを愛してくださっているということを聞くということ、私たちは日々色々な苦労をしているけれども神さまがいつも守って導いていてくださっているということを確認する時を与えられているということは素晴らしいことです。

エレミヤに与えられた主の言葉は、ユダの人々が散らされる前に、散らされた後のことを語る言葉です。しかも主はユダの人たちだけのことを言ってはいません。「諸国の民よ」と告げています。だからここにいる私たちだけではなくて、この近くにいる人や忙しく働いている人に対しても「私の言葉を聞きなさい」と神さまは言われるわけです。これは「新しい契約」です。エレミヤ書31章は新しい契約のことが書かれています。旧約の民に与えられた新しい契約とは救い主が現れるということです。

イエス様が語られた言葉

新約聖書に入ります。マルコによる福音書13章10~13節はイエス様が弟子たちに語った言葉です。ここは終末のしるしのことが語られています。3~9節に書かれているようなことはあって欲しくないなと思うのですが、それより前に「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられなければならない」(10節)と言われます。福音があらゆる人に宣べ伝えられることがまず起きなければいけないと書かれています。福音とは「良い知らせ」です。神は人を救うために御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになったということ、そのお方によってこの世が贖われたということです。神はエレミヤ書31章に書かれている約束を果たされたのであります。人は解き放たれ、贖われ、喜びに変えられ、慰められ、喜びを与えられたのであります(エレミヤ書31:11~14)。

もしこの恵みを人に伝えることによって迫害に遭うならば、身近な言葉で言いますなら苦情を言われたり反発を受けたりするならば、聖霊の教えるままに語りなさいと主イエスは言われます(マルコ13:11)。聖霊が私たちの内にいてくださって語る言葉を与えてくださいます。でも語る言葉は私たちの中になければ語れないということがありますから、やはり聖書の御言葉に親しんでいるということが大切なことです。何か聞いたときに心の中に浮かぶ聖書の御言葉が皆さんにもあると思います。愛称聖句とか好きな讃美歌の一節などです。そういうものが自然に出てくるのです。だから心配しなくても大丈夫です。

12節は前後の言葉に関係なく唐突に見えますけれども、これは終末のしるしの8節の言葉「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである」に続くものです。争いの中で家族のものが憎しみ合うということが起きると言われるのです。ウクライナでの戦争はまさに兄弟の争いです。これが神の御心であるというわけではありません。神はそのことをなぜ許しておられるのかということは私たちに知らされていないので、私たちは「神はどこにあられるのだろうか」と思ってしまうわけですけれども、神はこの事を通して私たちに何かを語っておられるのであり、私たちはそれを求めていくしかできないし、また祈り求めていくことはできるのです。

13節には「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と書かれています。この「耐え忍ぶ」という言葉は原語に遡れば「しっかり立つ」あるいは「そこに留まる」という意味があります。つまり耐え忍ぶとは、御言葉にしっかり立つことであり、御言葉に留まるということであります。また「救われる」ということは「すでに救われていることを知る」ということであります。

宗教改革記念日を覚えて

今日は宗教改革記念日を覚えて礼拝をおこなっております。10月31日(月)は宗教改革記念日です。この日は一年に一度、プロテスタント教会の自覚を呼び覚ます日として過ごすのが良いと思います。

教会の歴史の中で聖書よりも教会の伝統の方を重んじるという時期がありました。イエス様が福音を告げて人々を解放してくださったにもかかわらず、教会が形骸化していって免罪符を売り、人々はそれを買うことによって罪が赦され罪から解放されるという、いわゆる行為義認という教えになってしまいました。ところがマルチン・ルターはどんなに善い行いをしても自分が救われたという自覚を持てませんでした。神に祈り求め、聖書を読み、そして分かったことは、神様はすでに私たちを愛して赦してくださっているということでした。それは信仰義認という言葉で表されます。信仰義認は信仰するという行為によって義と認められる(罪から赦される)というように誤解されることがありますが、そうではありません。あるルーテル教会の牧師は「義認信仰」という言葉の方がふさわしいと言います。「神はすでに私たちを(不完全で罪を犯す弱い私たちであっても)赦してくださっている。主イエス・キリストが私たちのためにすでに十字架につけられたからだ。そのことが分った時に初めて私たちは救いを信じることができる。」と言います。私たちがどれだけ善い行いをしようと神を忘れては結局のところ何の意味もないということです。神に従っていく、聖書に書かれている神の言葉を聞くということなのであります。聖書に立ち帰ると神は無条件で私たちを愛しておられることに気づきます。その愛に照らした時に、私たちが犯した様々な罪が赦されているということに気がついて、そのことを深く悔い改めることができるのです。これがイエス様が地上に来られてから1500年後に宗教改革として起こったことです。神の言葉に立ち帰るということが何回も起きているのです。

今日の教会を顧みて

さて、そうすると宗教改革から約500年経った今、教会は果たして最初のイエス様が人々に告げた福音をそのままちゃんと受け取っているかということを振り返ってみるということが大切だと思うのです。

私たちが形式に縛られてしまうと神の言葉よりも形式の方に引っ張られてしまう。神の言葉をそのまま受けるのではなくて形にとらわれてしまうということになりがちです。たとえば教会は誰のものでしょう。教会は信徒のものでしょうか。違いますよね。神さまはすべての人を招くと言われました。すべての国民を招いているのです。ですから教会はすべての人の教会であります。だから私たちが招くのではなくて、私たちが招かれているのです。キリスト者と言えども私たちは招かれてここに来ています。キリスト者でない方も招かれてここに来ています。誰が来ても良いのです。私たちは誰が来ても良いと思っているけれども、ホストだと思っていないかという反省があります。ホストではありません。私たちもゲストです。イエス様が招いてくださるところに私たちも来ているのです。

私たちは季刊誌「風」を作り、先日はコンサートをしました。それは苦労することも多々ありました。それをなぜするかということを考えてみますと、招かれた喜びを伝えたいという気持ちがあるからではないかと思います。私たち自身がその喜びに参加するのであります。イベントをするにはいろいろなことを整えなければなりません。ですからそれを行う人たちの苦労というのは大変なことです。だけどそこに私たちも招かれているのです。私はこれが宗教改革のポイントではないかと思うのです。神さまが私たちを招いてくださっている。神さまが私たちを解放してくださっている。神さまが私たちを喜びに包ませてくださっています。それを私たちは受けているのです。礼拝で私たちは救いの使信、救いのメッセージを受け取っているわけです。

礼拝においては説教者も、奏楽者も、司式者も、受付も、奉献者も、皆が参加者です。神の前では等しく同じ立場に置かれています。ここにおられる主人は主イエス・キリストお一人であります。礼拝では主がお語りになります。それは私を用いて語られるわけです。私の言葉を聞くのではなく、私の言葉に主が込めてくださっている主の言葉を皆さんは聞くのであります。

奉仕と感謝

奉仕をすることによって誰かに喜んでもらえるという喜び、大変苦労したけれども完成したという喜びというものがあります。これからクリスマスのイベントがありますけれどもこれも同じです。ギブ アンド テイクではありませんギブ アンド ギブです。私が受けた恵みを神さまに返せないから他の方に返していくということです。

私たちは神の民、それぞれの人に家庭があり仕事があり、それぞれの場所で一所懸命に過ごしていますけれども、それでもなお、神の民として、神の家族として過ごすのであります。それはくつろぎのひと時であり、共に交わる暖かい交流であります。教会が居場所になればいいなと思います。何も用事がなくてもふらっと立ち寄れる場所。そこの家主はイエス様です。

そのような教会をつくりあげていくということが、エレミヤに語られた主の言葉であり、イエス様が「まず何よりも福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」と言われたことではないかと思います。福音が宣べ伝えられることによって、私たちが豊かな交わりの中にいることができる、沢山のものをいただいていることを知ることができるのであります。私たちは今、形にとらわれていないかどうか、礼拝に出ることを義務と思っていないかどうかを見直す時を与えられたことを喜びたいと思います。