11月20日収穫感謝礼拝説教「実りを与える神」

聖書 申命記26章10~11節、使徒言行録14章16~17節

収穫感謝祭の起こり

本日は収穫感謝礼拝として礼拝をおこなっています。収穫感謝祭の起源は多くの方がご存じだと思いますが、簡単に振り返りますと、1621年にイギリスからアメリカに移住したピルグリムたちがアメリカでの初めての収穫を神に感謝し、冬を越す知恵を授けてくれたネイティブアメリカンを招待して祝宴を催したことに由来しています。ピルグリムとは巡礼者という意味です。当時、イギリスでは宗教改革の真っ最中で、ピルグリムの人々は聖書のみの信仰に立つために英国国教会から独立しようとした人たちで、新天地を求めてアメリカにわたったのでした。このことを記念するためアメリカでは国民の祝日に制定されました。

今や日本も秋の実りに満ちています。美味しいお米や野菜を食べ、果物を味わうことができます。

聖書には収穫に関する聖句が沢山出てきます。新共同訳で「収穫」という言葉は旧約に67節、新約に9節、合計76節登場します。旧約における収穫祭は春の除酵祭とそれに続く過越祭と七週祭、そして秋の仮庵祭でした。イエス様がこの世界にお生まれになり働かれた後には、旧約の祭りがイエス様の出来事を記念するもの、すなわち過越祭は復活祭に、七週祭は聖霊降臨祭に変わりました。キリスト教の2大祝祭日の元には収穫祭があったというのは興味深いことだと思います。

収穫は「地の実り」

先ほど読まれた申命記26章10節、11節には「地の実り」という言葉で人間に与えられた恵みが書かれています。稲や野菜が実るのは土地があり、その土地の力があるからだということが告白されています。こちらで農業をしている平田さんのご主人と話をしたときに、植物には三大栄養素以外に多くの微量栄養素が必要でそのような土づくりが大切だと言われていました。「地の実り」という表現にはそのような意味が含まれているように思います。

その実りの初物を収穫したらそれを主の前に備えるようにという指示は、地の実り自体が神の恵みだということを示しています。確かに人間がどれだけ一所懸命に土を作り心を込めて育てたとしても、雨が降らなかったり、日が照らなければ植物は育ちません。長雨でも、日照りでもだめです。植物が育つには水と太陽と空気が欠かせません。それらを与えて下さるのは神にほかなりません。だから初物を主の前に備えるのです。現代ではこのことが忘れ去られ、今やお米や野菜はスーパーにあってお金を出せば手に入れることができると思い込みがちですが、神の恵みによって「地の実り」がなければ手に入れることができないものであることを今日は思い起こし、主に感謝したいと思います。

そして申命記には「その収穫物をレビ人と寄留者と共に喜び祝いなさい」と書かれています。レビ人は祭司職の人々、寄留者は他所から来て住み着いている人々で、土地を持っていない人々です。「地の実り」は神からの恵みなのですから、土地を持たず収穫の喜びにあずかることができない人々に分けて共に喜ぶようにすることは、すべての人が生きることができる社会だといえます。現代よりもよほど人の命を大事にする社会だったと思います。現代の多くの人々は野菜を作る土地を持っていません。働いて賃金を得て暮らしています。この貨幣経済の中で申命記が伝えている生き方をどのようにすれば実現できるようになるかが私たちに問われています。このように問いを立ててみると、賃金を得て暮らしている人々にもできることが見えてくるのではないかと思います。後はそれをそれぞれの人ができる範囲で実行していくことであろうと思います。

すべての人に与えられている恵みに気づく

さて、使徒言行録14章16節、17節にはパウロとバルナバが伝道旅行で立ち寄ったリストラという町で足の不自由な人を癒したのを目にした人々が、バルナバをゼウスと呼び、パウロをヘルメスと呼んだので、パウロが神を証ししたときのことが書かれています。パウロは「私もあなた方と同じ人間に過ぎません」と言ってから、次のように神を証ししました。

神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。

ここにも、神は昔から人間に実りを与え、食物を施していることが明かされています。ただし人々はそのことに気づいていないと言っています。16節では、人間は神が導き、支配されない限り、失敗し、さ迷い歩くほかあり得ない、人々は暗がりと死の中をさ迷っていた、と語っています。これを聞いている人々はユダヤ人ではなくまことの神のことを聞いたことのない人々でした。

ですからパウロがここで収穫の恵みを用いて、「神はあなた方に恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっている」と伝えています。収穫の喜びは人が生きるための必要を満たして喜ぶ食物を神が与えることにほかならないのです。

パウロが伝えたいことは、「あなた方はすでに神の恵みを受けているのに、それに気づいていないで思い思いの道を歩んでいるが、それは暗がりと死の中をさ迷っているようなものだ。」ということです。

神は天と地とその実りに注目するだけでは理解できません。御言葉を聞いて、その証しを聞いて初めて理解されるものです。人は御言葉の導きによらなくては、救いをもたらす神の知識に至ることはできません。パウロが伝えているのはこのことです。申命記に書かれているように、土の実りを収穫して主の前に供えることは信仰があるからであることが明らかです。

今日はここに地の実りがささげられています。これは実りを与えてくださった感謝を表すしるしです。植物が育ち実ることは決して人間の力によるのでも自然の力によるのでもなく、神の働きによるのです。

共に地の実りを感謝する

私たちは今日与えられた御言葉によって、神はすでに私たちに恵みをあたえておられることを教えてくださいました。私たちにはその実りが与えられています。しかし御言葉を知らないならば、神が与えてくださったことに感謝しないでしょう。そのような生き方は暗がりと死の中をさ迷っているようなものです。私たちは収穫を神に感謝する者でありたいと思います。そして収穫物を自分だけのものにするのではなく、そのうちの一部を苦しんでいる人々に与える者になりたいと思います。それが神が私たちに与えてくださる「地の実り」を共に喜ぶことになるのであります。