2月19日礼拝説教「キリストの栄光」

聖書 出エジプト記24章12~18節、マタイによる福音書17章1~8節

はじめに

今日は降誕節最後の主日です。今週の水曜日、2月22日が「灰の水曜日」で、この日から受難節、レントが始まります。4月8日のイースターまでの期間、イエス様が苦しみを受けられたことを覚えて過ごします。

そこで降誕節最後の主日である今日はイエス様がどのようなお方であるか、マリアを母としてお生まれになり、青年となられてから「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、天の国を宣べ伝えられたお方がどのようなお方であるかをしっかりと確認したいと思うのです。

モーセの十戒授与とイエス様の変貌の状況

先ほど読まれた聖書の出エジプト記24章12節から18節ではモーセとヨシュアが神の山に登ることが、モーセを中心にして描かれていました。もう一つのマタイによる福音書17章1節から8節ではイエス様が3人の弟子だけを連れて高い山に登られ、そこで起きた出来事が書かれていました。ここでの中心人物はイエス様とペトロです。

どちらも「山」での出来事が書かれています。山は聖なる場所です。そこは主なる神が人間と出会われるところです。

出エジプト記24章16節には「雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた」と、モーセが主なる神さまに会うまでに神さまは六日間の準備の期間をおかれたことが書かれています。またマタイによる福音書17章1節には「六日の後」と書かれています。「六日の後」というのは六日間置いて、七日目ということです。私たちも七日目毎に礼拝をおこなっています。

どちらの箇所にも「雲」が現れたと書かれています。雲は神さまがそこにおられることを私たちに示すとともに、神さまを隠しています。

このように本日読まれた出エジプト記とマタイによる福音書には時間も場所も登場人物も異なりますが同じような状況があったことが分ります。「山」は聖なる場所、そこで七日目に神さまが「雲」の中からモーセやペトロたちに声をかけられたのです。この出来事の後に起きることの重大さが示されています。

モーセは神の山で十戒の石板を授けられます。一方で、ペトロなどの弟子たちはイエス様の受難を通して十字架と復活の恵みに触れることになります。

イエス様が苦しみをお受けになるという出来事は、捕えられ、人間としての尊厳を踏みにじられ、傷つけられ、謂れのない罪を着せられて重大な犯罪を犯した者が受ける十字架刑で無残にも殺される、ということであります。そこには栄光のかけらも私たちは見ることができません。

そこにいる人は人々から排除され、死刑を言い渡されて無力で弱り果てた哀れな若者です。私たちはレントの期間にそのようなイエス様を見なければならないのであります。だから私たちはこの礼拝でイエス様の本質をしっかりと見たいと思うのです。

イエス様の変貌の意味

マタイによる福音書に聞いてまいりましょう。イエス様とペトロ、ヤコブ、ヨハネの弟子たちは高い山に登っています。弟子たちはイエス様と山を歩きながら言葉を交わさなくても、イエス様と心を通わせ、イエス様の魂に触れていたことでしょう。彼らは麓(ふもと)の、人が多くいる所で抱えていた心配や疑いや論争などが心の中から消えていき、感謝と喜びが大きくなっていったことだと思います。弟子たちは山を登るにつれ下界とは別のものに変えられていきました。

2節に「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と書かれています。弟子たちはイエス様を永遠の光によって見たのです。イエス様の顔の中に神さまの顔を見たと言ってよいでしょう。それは人間を困難と窮乏と罪と死から解放し、平安と希望へと導く神のお姿であります。

弟子たちはそこにモーセとエリヤが現れ、イエス様と語り合っているのを見ました。モーセはエジプトで奴隷になっていたイスラエルの民を救い出した指導者です。エリヤは北イスラエルの王アハブによってイスラエルが異教の偶像に支配されていた時に、アハブとその祭司たちに対抗して主なる神の威光を示した預言者です。この二人がイエス様と共にいるというのは、その場所が特別な聖なる場所であることを表しています。

ペトロは感激し、そこに3つの仮小屋を建てることをイエス様に進言しました。仮小屋というのは旧約聖書に出てくる「幕屋」のことです。幕屋は神が居られる場所でした。神は場所にとらわれないので移動ができる幕屋を用いていました。この幕屋は移動式ですが人間が考える簡易なものではなく、神さまがその作り方をモーセに詳細に教えて造られた建物です。出エジプト記の35章から40章には幕屋をどのように造るかが書かれています。

ペトロは言いました。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

福音書はペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲がイエス様たちを覆い、その雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が聞こえたと記しています。これは、そこに父なる神がおられたことを示しています。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」という言葉はイエス様の洗礼の時にも聞こえた言葉ですが、これは神が王の即位を告げる言葉です。しかもこの王は人々の上に君臨する王ではなく、イザヤ書53章に預言されている<苦難のしもべ>として私たちに仕えてくださる王なのです。「私の心の適う者」というのはくだけた表現で言えば「私のお気に入りの者」ということです。イエス様は神さまのお気に入りなのです。この言葉を弟子たちも聞きました。神の喜びの思いを受けたお方が「しもべとして私たちに仕え、私たちを導くお方」であるということを聞いたのです。これはこの後の十字架への出来事を暗示していると言っても良いと思います。私のお気に入りである独り子イエス様を犠牲にすることによって私たちを罪の束縛から解き放ち、救い出そうとする十字架の愛の勝利が告げられています。

神さまはその言葉に続けて「これに聞け」と言われました。「しもべとして私たちに仕え、私たちを導くお方」の言葉を聞きなさい。そうすれば間違いがない。ここにいのちがある。埃にまみれて放浪者のように旅を続け、重罪人として殺される、この愛する子、心の適う者の言葉を聞きなさい。そう神さまは言われるのです。「権力者の声でも、力のある人の声でもない。利害関係にある人の声でもありません。このイエス様の声を聞きなさい、そこにいのちがある」。そう神さまは弟子たちに、そして私たちに言われるのです。イエス様の栄光はこのようにして弟子たちの前に明らかにされました。そして今日礼拝の中でこのことを聞いた私たちにも明らかにされました。

弟子たちはこの声を聞いて地面にひれ伏し、非常に恐れました。自分たちの目の前で尋常ではないことが起こったのですから無理もありません。その恐れは彼らを動けなくしたことでしょう。しかしイエス様は弟子たちに近づきました。そして彼らに手を触れました。これは癒しの業であると言えましょう。私たちが恐れにとらわれ動けなくなっているときにイエス様の方から私たちに近づいてくださいます。そしてイエス様は「起きなさい。恐れることはない。」と言われました。「起きなさい」とは復活しなさいということです。うずくまり動けなくなっている弟子たちに手を触れ、再び立ち上がらせました。そして「恐れることはない」という言葉をかけて弟子たちを安心させました。

ペトロの反応

さて、ペトロがこの場所に仮小屋を建てましょうとイエス様に進言した時、ペトロはそこにずっと留まりたいと思ったのではないかと思います。このことに関して私は洗礼後のある時期に思ったことを思い出しました。会社での人間関係の煩わしさや意見を言うことができず言われたことをする仕事のやり方にうんざりしていた私は、神さまと共に教会の兄弟姉妹といつも一緒にいたいと思ったことがあります。それはいろいろな不愉快なことから逃れられ、心の平安を得られることだと思いました。聖なる場所で神さまとの交わりの中にいたいと思いました。

しかしその思いは未成熟な信仰、いわば弱さのしるしです。この世の中ではキリストの栄光を貫くことができないのではないかという恐れがあります。このような恐れを抱いているペトロや弟子たちにイエス様は近づき手を置かれたのです。そして「起きなさい。恐れることはない。」と声をかけられたのです。イエス様との結びつき、交わりが豊かになったとき、弟子たちは恐れから解放されたに違いありません。再び山を下りて、人々の只中に出て行く力を得ました。そこは不条理に満ちたところです。いわば暗黒の地です。

16世紀の画家ラファエロは「キリストの変容」という絵画を描きました。この絵画はヴァチカン美術館に所蔵されています。絵の下半分にはこの世の不条理の中で苦しみ、神を求めている人々の姿が描かれています。上半分にはイエス様、モーセ、エリヤ、そして弟子たちが描かれています。中央に描かれているイエス様は宙に上げられ両手を広げておられます。それは十字架につけられる主の御腕を暗示しています。そしてまたその両手は弟子たちを招き、人々を祝福する御手であるように感じます。

終わりに

弟子たちはイエス様と共に山を下りて日常に出て行くのです。キリストの栄光を携えて。キリストの栄光を見た人は神さまとのつながりを強くします。復活のキリストとの交わりを豊かにします。聖なる場所にとどまるのではなく、この世の不条理の中で、福音を伝える者として、この世へと出て行くのです。