4月30日礼拝説教「キリストは良い羊飼い」

聖書 使徒言行録2章42~47節、ヨハネによる福音書10章1~10節

私たちが帰るところ

愛する皆さん、神は私たちを愛しておられます。また今週も週の初めの日にここに帰ってきました。教会は私たちが帰ってくるところです。イエス様はご自分の声を聞く人々をご自分の囲いの中に導いてくださいます。そこは建物やどこかの場所というのではなくて、イエス様のお名前によって集まった人々がいる所です。イエス様はどのようなお方であるのか。これが本日のヨハネによる福音書が語るテーマです。このテーマについて考える前に、まずはイエス様のお名前によって集まった初代教会の人々の生活を見ていきたいと思います。

地上に現れた神の国(神の支配)

先ほど読まれました使徒言行録には初代教会の人々の生活の様子が記されていました。それによると人々は使徒の教えを聞き、相互の交わりやパンを裂くことや祈ることに熱心でした。現代で言えば使徒の教えを聞くとは聖書の御言葉を聞くことであり、相互の交わりとは信徒同士の語り合いであったり奉仕ということであり、パンを裂くことは聖餐です。人々は権力者や抑圧者を恐れるのではなく、神を恐れていて、使徒たちによって不思議な業としるしが行われていたと書かれています。現代でも私たちの信仰生活の中で不思議な業やしるしが起こされています。私たちの教会でも先日のイースターでお二人の方が洗礼を受けられましたし、更に洗礼志願者が与えられています。

当時の教会では、信者たちは皆一つになって、すべての物を共有し、そして各自の財産や持ち物を売って、それぞれの人の必要に応じて分け合ったと書かれています。そして人々は毎日神殿に参り、家ごとに礼拝をおこない、食事を共にして、神を賛美していたと記されています。これが実現していたというのは神の国がこの世界に出現していたことを意味していると言っていいと思います。なぜこれが実現していたのか。それは地上を歩かれたイエス様と一緒だった人々や復活のイエス様に出会った人々が生きていて、人々は直接その人々からイエス様のことを聞き、現実感をもって救いを体験していたからではないかと思います。また現代ほど貨幣経済が徹底されてはおらず、また個人が独立していることを良しとする社会ではなくて、お互いが協力しなければ生きられない、良い意味での助け合いの社会だったことが考えられます。

当時の聖書である旧約聖書のレビ記には「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。」(レビ19:9-10)という戒めが書かれています。また申命記には「寄留者、孤児、寡婦が食べて満ち足りることができるようにしなさい。」(申 14:29)という戒めもあります。

初代教会の人々はこれらの戒めをイエス様の教えとして受け取り、実行していたことでしょう。イエス様は「あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ10:27)という最も重要な掟を私たちに与えました。

現代の私たちが考えるよりも社会の仕組みや人々の考えが、財産や持ち物を分けることを容易にしていたのではないかと思います。人々は神を賛美していました。このような生活をする人々は民衆全体から好意を寄せられていたと書かれています。この人々はイエス様の声を聞き、イエス様を思い起こしていました。

イエス様とはどのようなお方

そのイエス様とはどのようなお方であるのか。ヨハネによる福音書10章に記されているイエス様ご自身の言葉に聞いてまいりましょう。イエス様は羊飼いと羊の譬えを用いてご自分と私たちの関係をお示しになりました。「羊の囲いに入るのに門から入る者が羊飼いであり、羊はその声を聞き分ける」とイエス様は言われます。当時の人々にはこの譬えは良く分かったことでしょう。羊たちは羊飼いの声を聞いてその声に従います。羊飼い以外の者には決してついて行かないそうです。ちょうど犬や猫が飼い主の声を聞いて近づいてくるのに似ていると思います。

イエス様は「私は羊の門である。私を通って囲いに入る者は救われる」とも言われました。この言葉は別の箇所でイエス様が「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ14:6)と言われた言葉を思い起こします。

イエス様とは、良い羊飼いとして私たちを守り導くお方です。今日(こんにち)においても、御言葉と共に私たちと共におられて私たちの良い羊飼いでいてくださいます。イエス様は私たちに主として出会われるお方であり、私たちに先だってお語りになり、私たちが清く誠実であるように私たちの生活のただ中にいてくださるお方です。

私たちに対する神の愛は非常に大きく、御子を人としてこの世に遣わされました。御子は神の身分をお捨てになり、私たちと同じ人間となって、ご自身に罪を引き受け、罪を打ち破られました。私たち人間の生きることの不条理や罪の罰、死や地獄の苦悩が私たちに降りかからないようにしてくださいました。

イエス様は羊飼いです。この羊飼いは羊のために命をお捨てになるほどに私たちを愛してくださいました。そして父なる神の御旨によって復活なさり、今もなお私たちを導いておられます。私たちがおびやかされている時に既に私たちはこのお方によって救われています。イエス様の声を聞いた者は謙虚になり、柔和な者となっていくでしょう。

神の言葉だけを聞くことの意味

カール・バルトという牧師は1934年、ドイツでヒトラーが独裁体制を確立した年に、この個所を用いて「主の御声にのみ従うことが私たちを希望へと駆り立てる」という説教を行いました。ドイツ社会全体がヒトラーとナチスの宣伝によって戦争やユダヤ人迫害へと向かおうとするときに、権力者の巧みな言葉に従うのではなく主の御声に従うように促しました。この年の5月に発表されたバルメン宣言の第1条はこのように書かれています。

聖書においてわれわれに証しせられているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。

教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉の他に、またそれと並んで、更に他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認し得るとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは斥ける。

このような文章です。この第1条の根拠となる聖句のひとつがこの10章の御言葉なのです。「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」

ヒトラーの言葉に神の真理はありませんでした。バルメン宣言を発表した人々は神の言葉に命を懸けました。多くの牧師や信徒が捕らえられ殉教しました。それでもなおバルメン宣言を支持する人々は神の言葉に従い続けました。私たちは神の声に聞き従わなければなりません。良い羊飼いの声を聞き分けなければなりません。

この後で歌う讃美歌459番「飼い主、わが主よ」の1番の歌詞は次のようです。

飼い主わが主よ、
まよう私たちを、若草の野原に伴ってください。
私たちを守って養ってください。
私たちは主のもの、主の群れだからです。

良い羊飼いは羊の一人ひとりをご存知で、導いてくださいます。十字架で私たちの罪を贖い、復活して私たちを導いてくださいます。私たちには乏しいことはありません。

神の言葉に生かされる

私たちがイエス様のお守りの内にあることが良く分かってくるならば、すなわちイエス様の言葉に耳を傾けるならば、不安はなくなっていきます。恐るべきものは神以外には有りません。人と人とは聖霊によって豊かな交わりにおかれます。初代教会において現れた地上の神の国は現代でも現れるのです。それは初代教会の様子とは違って、現代の社会にふさわしいものとして現れるでしょう。

そこでは神の声が聞かれ、神の声だけに従う群れがいます。そこでは神の言葉が語られ、それを喜んで聞く人々がおり、聖餐によって命を新たにされ、神に祈りがささげられ、相互の豊かな交わりがあります。そこでは人は誰でも尊重され、神が守っていてくださることを知り、安心するのです。