5月14日母の日礼拝説教「愛することを求める主」

聖書 使徒言行録17章22~31節、ヨハネによる福音書14章15~21節

母の日に母を想う

今日は母の日として礼拝をおこなっています。教会で母の日を祝うのは不思議に思うかもしれませんが、母の日は教会から始まったのです。その元になっているものはエジプトからの脱出を指導したモーセがシナイ山で神さまから戴いた十戒の第五戒の言葉です。それは旧約聖書の出エジプト記の20章に書かれています。「あなたの父母を敬え。」という戒めです。なお、この戒めには父も出ていますから父を祝うことでもあるのですが、父の日は6月第3日曜日にやはり教会で祝われるようになりました。

日本で初めて母の日のお祝いが行われたのは明治末期の頃。アメリカから、キリスト教由来の行事として日本に入ってきて、1915年(大正4年)に教会で最初のお祝いの行事が催されました。

『母の愛の名言』というものを少し紹介したいと思います。

・聖書の箴言から、「わが子よ、母の教えをおろそかにするな。」
・インド独立の父、マハトマ・ガンジーの言葉から「わたしの中に清らかさがあるとすれば、それは母から受け継いだものです。」
・江戸時代に米沢藩を救った上杉鷹山の言葉から「父母の恩は、山よりも高く、海よりも深い。」
・フランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーの言葉から、少し長いですが、「母親がパンを二つに割って、子どもたちに与えると、その子たちはむさぼるように食べた。『自分の分を取っておかないなんて。』 軍曹は、驚いた。『おなかが空いていないのでしょう。』と兵士は言った。『いや、母親だからだよ。』と軍曹が答えた。」

これらの言葉には母への愛が感謝と共に明かされているように思います。母への愛はすべての人が持っているものだと思います。ビクトル・ユーゴ―の言葉には子どもたちにパンをすべて与える母の行為を驚きと共に「母親だからだ」と説明しています。昨今では我が子を虐待する母もいますからすべての母をこのような理想の存在にしてしまうのは危険かもしれません。しかし、やはり多くの人が幾つになっても母を思い慕っているのではないかと思います。

母が子を愛するということは母にとって生きる力なのだと思います。新聞に、あるシングルマザーの言葉が載っていました。その人は「子どもが成長して一人前になるまでは死ねない」と語っていました。パートを掛け持ちしても収入は生活していくのに限界に近い程度しかなく、子育てや家事で自分の時間がまったく取れない。そんな中で必死に生きている人の言葉でした。

その子の父親は離婚したとしても、子育ての責任を分担しなければなりません。また社会的な制度として、諸外国にある短時間労働社員やワークシェアという制度の導入や男性の長時間労働を是正する労働環境の改善が必要だと思います。私自身、会社勤めをしていた時には寝る時間もないほどに働き、家事や子育てに参加しなかったことを、今頃になって負い目として感じています。当時はそれが当たり前だと思っていたのですから意識改革ということが非常に大切であると思います。

それにしても先ほどの母親は子どもを愛していて、この子のためなら死んでも良いと思っているのではないかと思います。この母親は子どもを愛しているから、どんなに辛い状況や困難な状況でも自ら死ぬことはないでしょう。愛する対象があるということは生きる力や意欲を失わないということだと思います。

愛することを求めるイエス様

ヨハネによる福音書の14章15節に「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」というイエス様の言葉があります。そして21節に再び「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。」とイエス様は言われます。イエス様は私たちにご自分を愛するように求めています。そしてイエス様を愛するということは「私の掟を守る」ことだと言われます。

このイエス様の言葉を私たちが倫理的に受け止めるならば、「良いキリスト者はイエス様を愛する」と言うふうに理解してしまいます。それは自分を裁く言葉となり、人を裁く言葉となるでしょう。イエス様はそのようなことを言っているのではありません。

まずもって「私の掟」とは何であるかを確認したいと思うのですが、これは13章34節のイエス様の言葉「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」です。私たちがイエス様をこの愛し合う人々の中に含めるならば、この掟には十戒の戒めがすべて集約されています。

この14章のイエス様の言葉は決別説教です。イエス様は復活の後、天に昇られて弟子たちの目には見えなくなります。イエス様は地上におられる時、イエス様を信じる人々の助け主であり弁護者でした。そしてイエス様はご自分が見えなくなった後に、父なる神にお願いして、別の弁護者を遣わしてもらうと言われたのです。それは信じる人々をみなしご、すなわち弟子たちが飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれることのないようにです。この弁護者こそ聖霊、真理の霊です。私たちはこの聖霊を知っていて、聖霊は私たちと共におられると、イエス様は言われました。そしてキリスト者を父なる神とイエス様との愛の交わりの中においてくださいます。この霊こそが父なる神を証しし、イエス様を証しするお方です。パウロがアテネのアレオパゴスの丘でギリシア人に神とイエス様を証ししたのも聖霊のお働きによります。

イエス様は「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。」と言われます。残念ながら、御言葉を聞かずして神を知ることはできないのです。これは神の啓示だからです。パウロはアテネの人々に、「あなたがたが知らずに拝んでいるもの」がイエス様が指し示された神であることを証ししましたが、これも聖霊の力によります。パウロは聖霊によって力強く証しすることができました。

愛することは生きること

18~21節の言葉は15~17節の言葉を表現を変えて繰り返しています。それだけ大切なことを語っているのです。

19節では、「あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」という言葉で、私たちが今もなお聖霊によってイエス様を見ることができるを教えています。これは聖書に書かれた言葉の奥にある「コトバ」を通してイエス様に出会うことです(5月7日の説教参照)。私たちはイエス様が見えなくなっても聖書の言葉を通してイエス様に出会い、そしてイエス様を愛することができるのです。

極限状態での生

人は愛する対象があれば生きることができます。奇跡的に強制収容所から生還したヴィクトール・フランクルの『夜と霧』にこのような文章があります。長いので要約してお話しします。

収容所には外国に逃れて父親の帰りを待つ最愛の子どもがいました。この人は子どもにとってかけがえのない存在でした。フランクルがそのことを説明すると彼は自分がその子にとってかけがえのない存在であることに目を開かされ、その子のために100人の内5人程度しか生き残れない現実の中で生きる決心をしました。フランクルは「愛する人間に対する責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が『なぜ』存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる『どのように』にも耐えられるのだ。」と書いています。

また次のような印象深い言葉を書いています。

「収容所における、この困難な時、そして多くにとっては最後の時が近づいている今この時、誰かの促すようなまなざしに見下ろされている。誰かとは、友かもしれないし、配偶者かもしれない。生きている者かもしれないし死者かもしれない。あるいは神かもしれない。そして私たちを見下ろしている者は、失望させないで欲しいと、惨めに苦しまないで欲しいと、そうではなく誇りをもって苦しみ、死ぬことに目覚めて欲しいと願っているのだ。」

私はもっと直截的に言いましょう。「イエス様を愛するということはどのような状況においてもイエス様のまなざしを忘れないということ。イエス様は苦しむにしても誇りをもって苦しみ、死ぬことに目覚めて欲しいと願っています。」

生きることは苦しみの連続かもしれない、死が現実のものとして迫ってくることかもしれない。しかし神さまは私たちを愛して導いておられます。決して私たちを見捨てたり裏切ることはありません。何を愛しても生きる力にはなりますが、永遠に変わらないものを愛するならば私たちが神に召されるまで生きる力や意欲を失うことはありません。

生かしてもらうためにイエス様を愛する

イエス様がご自分を愛することを求める理由は「良いキリスト者は掟を守る」といった倫理的生活を求めているのではありません。イエス様を愛するというのは、そしてイエス様の掟を守るということは、私たちが生きる力や意欲を持ち続けるということなのです。イエス様はご自分を愛するように私たちに求めます。それは私たちに命を与えるためです。立派なキリスト者になるという傲慢を捨てて、生かしてもらうためにイエス様を愛したいと思います。