7月23日礼拝説教「見えないものを望む」

聖書 創世記28章10~19a節、ローマの信徒への手紙8章12~25節

霊的な体験について

本日読まれたローマの信徒への手紙の箇所は救いの確信を高らかに歌い上げています。15節をご覧ください。ここには『あなたがたは人を神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。』と記されています。

私たちは日常において霊的な体験をすることがあります。その体験が聖霊によるものなのか汚れた霊によるものなのかを判断する基準がこれなのです。私たちが神を讃え、神に「アッバ、父よ」と叫びたくなるような体験は聖霊による体験なのです。

ヤコブの霊的体験と今日的体験

旧約聖書の創世記28章に記されているヤコブの夢は、天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしているものでした。そして夢の中で主なる神がヤコブに現れ、ヤコブを祝福しました。そのときヤコブはその場所が神の臨在された畏れ多い場所であることを悟り、そこをベテル、すなわち神の家と名づけました。ヤコブは「アッバ、父よ」とは叫びませんでしたが、記念碑を建ててその場所にしるしを置いたことから、彼に聖霊が降ったことはあきらかです。

今日ではインターネットによっていろいろな人がいろいろな情報を書き込み、それを他の人々が利用できるようになりました。今では携帯電話や携帯端末があれば世界中のほとんどの場所で瞬時に情報が得られるようになりました。しかし、その反面、匿名で個人を攻撃するヘイトメッセージが書きこまれるようになり、それに付和雷同する人々がその個人を攻撃するという悪が拡大しました。そのことによって自死に追い込まれた人が後を絶たなくなりました。これは汚れた霊の仕業であります。

このような状況を背景にして、本日与えられましたローマの信徒への手紙8章12から24節は今日的に非常に重大な意味となってきました。もちろん過去の時代にもその時代における問題、つまり罪の誘惑がありました。そして人はそれに対峙する知恵を得てきたのでありますが、罪すなわち神の道から外れた自己中心的な生き方から来る悪は新たな誘惑をこの世に起こすのです。ですからパウロが記す言葉をよく聞かなければならないと思うのです。

霊体験の見極め方

パウロは霊の体験の見極め方について私たちに教えます。聖霊は「私たちを神の子とする霊」、「神の霊」、「キリストの霊」などと呼ばれますけれども、どのように呼ばれても、それを受けた人は恐れに陥らされるのではなくて、また滅びへとつながれることなく、神の子たちの栄光に輝く自由に預かるようにさせていただけるのです。聖霊が私たちに降り、私たちは神の子と呼ばれるようになったのです。「そのことを自覚しよう」とパウロは言っているのであります。私たちが主イエス・キリストの言葉を聞いてそれに打たれ、そしてまた、キリストの十字架によって私たちの罪を赦していただきました。そして私たちはこのことに感謝して生きる生き方に変えられました。

霊の賜物は神を父と呼ぶほどの親しい存在とさせていただくことであります。神の子としていただくことであります。それは神の無償の愛を受けること(Ⅰコリ14:1)であり、教会をつくりあげること(Ⅰコリ14:12)です。キリストと共に生きるということを私たちができるようにしてくださるのも聖霊であります。

キリスト者の生活

信仰生活と言うものはキリスト教という宗教を学ぶことではありません。キリストを受けて、そのキリストを信じることであります。キリストご自身を知ることが最も重要です。そのキリストを知るということにおいて聖霊が私たちに働きかけてくださいます。それは滅びへと導く奴隷の霊ではなくて、私たちを解放してくださる霊です。

キリストを知るということは知識を増やすことではありません。キリストがこの世に生まれて生きて、そして死なれたということを、まるで私たちがそのお側にいて体験するかのごとく知ることです。

キリストを知ることについて、パウロはキリストの復活の力を知ることとキリストの苦難にあずかることを挙げています。復活を知るということは教理を学ぶということではなく、キリストによってよみがえらされる、ということです。

そしてもう一つ、キリストを知る道はキリストの苦しみにあずかるということです。キリストの苦難にあずかるということは自分の救いが分かるということです。それはまたキリストによって、神が私たちを愛していてくださるということ、私たちは神に愛されているということを知ることです。キリストに救われ新しくされた人にとって、すでに一切は完了しています。主イエス・キリストがもうすでに私たちの罪を贖ってくださいました。

だからこそ、主イエス・キリストに倣って生きていこうとするときに苦難にあったとしても、その人は慰められるのであります。キリストの苦しみが私たちに迫ってきます(Ⅱコリ1章)。それが迫ってくるときに私たちは悔い改めへと導かれる、神さまの方に向き直されるのです。苦難にあって人はキリストを想い、慰めを受けます。ですから慰めを知っている者にとっては苦難はもはや問題にはなりません。苦難の中に慰めがあるからこそ、慰めは一層深い希望へとつながっていきます。

キリスト者になったからといって苦難がなくなったのではない。ユートピアに連れて行ってもらえるのではありません。苦難は続くし、もしかしたら主イエス・キリストの生き様を生きようとするときにキリスト者はこの世の人たちから謂れのない迫害を受けるかもしれません。それでもなお私たちは喜ぶのであります。パウロは「喜ぶ」というのです。実際パウロが受けた苦難はとても大きいものでした。パウロは伝道するために船で旅して難破したことが何度もあり、殺されそうになったことも何度もあるという人生を送った人です。そのパウロが「私は喜んでいます」と言うのです。これこそがキリストにある喜びであります。パウロはキリストの救いがすべての人に伝えられるために苦しんだのです。

教会の仕事は美しいことばかりではありません。それはむしろ見栄えのしない、苦労ばかり多いような小さな、時としては醜いことであるかもしれません。しかしそれがキリストのためであれば喜んでそれに当たることができます。そこには奉仕する人々の主にある交わりがあります。一人で奉仕をしているとしてもそこには主なる神が共にいてくださるのです。

パウロの受けた苦しみは、キリストに救われて新しい人に変えられたという事実であり、その喜びです。その苦しみはその後に栄光が与えられると言われていますけれども、実はキリスト共に苦しむ時に将来の栄光が約束されている。キリストと苦しみを共にするということは止むを得ずすることではなく、積極的に苦しみを受けるということです。自分の損になることでもするのです。キリスト者ではなくてもこのような自己犠牲的な行為をします。ただ、キリスト者は主イエス・キリストの苦しみにあずかるという喜びにおいてそのことをしていくのですから、このことによって感謝されようとも、非難されようとも、それはどうでもいいことになるのです。キリスト者の信仰生活というのはこういうものです。私たちを束縛する奴隷の霊に捕らわれるのではなく、私たちに聖霊が降っているのですから、神の御言葉に従って生活をしていく。ただそれだけです。

この世界のうめき

そしてこの世界が呻き苦しんでいる。そう書いてありますね。沈黙しているけれど呻き苦しんでいる。この世界の苦しみにも私たちはあずかっている。神の子としてまだこの世界に現れていないけれども、被造物は神の子が現れるのを待ち望んでいます。それはこの世界にイエス様が再び来られる日を待ち望むということなのです。私たちもまったく新しい人にしていただくという希望を持っています。イエス様は必ず来られると約束されました。これが私たちに与えられた一番大きな約束です。

私たちの目に見えるものは希望ではありません。目に見えないからこそ希望であります。ヤコブが夢に見たものも約束です。神がここにおられるということ、神が導いておられるということ、そしてまた神が再びこられるという、この約束が私たちに与えられています。このことが喜びの原点です。

見えない希望を確信する

見えない希望とは「神の約束」です。神はキリストに従う人々を祝福し、いつまでも共にいてくださると約束してくださいました。キリストが再び来られる時にはその人々を栄光に輝かせ、神の相続人とするという約束です。この約束は、本来すべての人が受け取ることのできる約束です。そしてキリスト者は聖霊を受けてこの約束を受け取る相続人として「神の子」とされました。このことを自覚することにより、キリスト者は苦難を受けても喜ぶことができるのです。キリスト者となったからといって苦難がなくなるわけではありません。もしかしたらキリストの教えを生きるということにおいて新たな苦難を受けるかもしれません。しかしそれはキリストと共にあることを確信させ、神の相続人としての望みを一層確信することでありますから喜びであります。