10月15日礼拝説教「思い煩いは神に」

聖書 イザヤ書25章6~9節、フィリピの信徒への手紙4章2~9節

「私の背中を見て」

女子サッカーがワールドカップで世界一になった試合で、澤穂希(さわほまれ)選手が言った言葉が感動を呼んだことを記憶しているのではないかと思います。澤選手は「苦しい時は自分の背中を見て」と仲間を励ましました。澤選手は当時のインタビューに、「私には苦しい時こそ“私は最後まで諦めない。絶対に走り続ける”というキャプテンとしての決意がありました。でも、言葉だけでは説得力がないですし、自分も口だけの先輩は嫌だと思うので、行動で示すために究極の時にこの言葉をかけました」と語りました。サッカーという競技で勝つためには自分を奮い立たせるだけではなく、仲間をも奮い立たせなければなりません。仲間が苦しい時に自分が率先してプレーをする姿を見せて、仲間を奮い立たせようとしたのです。

本日のフィリピの信徒への手紙4章9節にパウロがフィリピの信徒たちに「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。」と書いたのは、まさにフィリピの信徒たちが信仰の闘いに疲れていた時だったのではないかと思うのです。パウロの場合は「自分を見なさい」と書くのではなくて、パウロと共にいる主なる神を見るようにと書いています。

パウロはイエス様の言葉や行いを見聞きして、また復活のキリストに出会って、当時の聖書である旧約聖書に預言されている救い主はこのお方であると知りました。そして福音を伝える人になりました。パウロは困難な時には自分を思い出してほしいと願っていたと思います。なぜならパウロこそ福音を伝えるために一所懸命働いた人だったからです。今の私たちにもパウロの思いが伝わってきます。パウロが困難な状況でも喜びに満ちて福音を伝えている姿を私たちは思い描くことができます。そんなパウロが時代を超えて私たちに勧告しています。今日もパウロの勧告を聞きたいと思います。

いつでも喜ぶ・・なぜ喜べる

今日のフィリピの信徒への手紙の箇所ではエボディアとシンティケという二人の女性が出てきます。当時の社会は男性優位の社会でしたが、教会では女性が指導者として活躍していたことがわかります。パウロはこの二人に「主において同じ思いを抱きなさい。」と勧告しています。単に人間的な領域で同じ思いを抱くのではなく、「主において」というように神さまとの関係において同じ思いを抱くことが大切だとパウロは言います。当時のローマ社会において、キリスト者は少なく教会は小さかったので、信徒たちが世の荒波に流されることなく福音に生きるために「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにする」ことが大切でした。パウロは牢獄の中にいても福音を告げ知らせることに喜びを得ている自分の姿を見せて、信徒が主において一つになることを伝えたのです。

4節でパウロは「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」と勧めます。牢獄にいるパウロと世の荒波の中にいるフィリピ教会の人々には苦難こそあっても喜びはなかったのではないでしょうか。捕らわれの身であり、周りから変な目で見られ、社会を混乱に陥れると危険視されていた人々です。この世の価値観からすれば喜ぶことなどできない、悲しみの声をあげ、怒りに打ち震える状態ではなかったかと思います。しかしパウロは喜んでいます。そしてフィリピの信徒にも喜ぶように勧めています。なぜ喜べるのでしょうか。

パウロが言う「喜び」とは良いことがあったから喜ぶとか、嬉しいから喜ぶ、というのとは違う喜びです。それは「主において」味わう喜びです。すなわち私たちが主の中にいて、あるいは主の内にあることの喜びです。どのような状況にあろうとも主が私たちと共にいてくださいます。このことを信じるならば外見がどのように惨めであろうとも、内面は喜びに満たされるでしょう。この喜びは誰にも奪うことはできません。身体を拘束されようとも、精神的に追い詰められていようとも、主が守ってくださることをしているからです。主が私たちを救ってくださる、私たちを御用のために用いてくださるという喜びは格別で、他のどんなものにも代えることはできません。

5節前半には「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。」と書かれています。広い心は温かさ、善良、寛大、寛容を表します。キリスト者はイエス様の御心と行いに触れて、傲慢を砕かれた者です。そのような者は広い心で他の人に接することができる素養を与えられているといえます。私たちの心が狭くなるのはイエス様を忘れて自分の自我を前面に出すからではないでしょうか。私たちには苦難を受けられたイエス様が共におられます。イエス様が私たちの受ける恥を拭い取ってくださることを忘れるからではないでしょうか。イエス様が私たちを受け止め、支えていてくださいます。パウロが書いているように「主はすぐ近くにおられます。」(5b節)

パウロはこれらのことを伝えた後に後に次のように勧告します。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(6節)

神を知らず、イエス様の苦しみを知らなければ人は思い煩います。神を知り、イエス様の苦しみを知っている人は御言葉に聞き神に依り頼みます。神が与えた試練は神にしか取り去ることはできません。私たちは誰が偉いかといった権力闘争に巻き込まれる必要はありません。神に願い求めることが喜びのうちに居続ける最良の方法です。

「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(7節)

「神の平和」とは全宇宙の調和です。調和の乱れが交わりの断絶を生みます。それは「同じ思い」(2節)を阻害します。

イエス様は調和の破れを修復し、交わりを回復させてくださいます。この世界には多くの破れ、交わりの断絶があります。しかし主イエス様を信じる者たちには「神の平和」が与えられ、交わりが回復されるのです。

「キリストは僕の身分になり、人間と同じ者になられました。へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

このキリスト・イエス様が私たちと共にいてくださいます。このイエス様が父なる神の無償の愛を示してくださいました。私たちはその無償の愛の中にいます。

神が恥をぬぐってくださる

イザヤ書25章6節から9節には、神が私たちを愛して養ってくださることが記されています。これは神の国の現実を幻として私たちに見せてくれている箇所です。

6節に「万軍の主はすべての民に良い肉と古い酒を供される。」と書かれています。万軍の主なる神はこのように私たちを養ってくださいます。8節に「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。」と書かれています。私たちが受ける恥はもはや私たちを苦しめることはありません。神が恥を拭ってくださるからです。主イエス様はそのために地上に来られました。9節にあるように「この方がわたしたちを救ってくださる。」のです。

神はキリスト者を訓練することはあっても滅ぼすことはありません。これは傲慢になって良いということではなく、神にへりくだり苦難を耐える力を与えていただけるということです。苦難や試練は私たちの品格を高めます。品格とは「広い心」のことです。それは温和であり、善良であり、寛大であり、寛容です。コリントの信徒への手紙10章13節には「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」という御言葉があります。試練に耐えられなければ逃れてもよいのです。それは人生の負け組になることとは違います。神さまが新たな方向で私たちを用いてくださるということです。

このように、神は私たちを養い用いてくださいますから、目の前の苦難や困難に目を留めて思い煩うのではなく、すべてを治められている神さまに目を留めて忍耐強く日々を過ごすならば、道は必ず開かれます。それは解決への道かもしれないし、違う方向に向かう道かもしれません。

私たちはこのことを信じるからどんな状況にあっても主において喜ぶことができるのです。パウロが自ら示し、フィリピの信徒に勧めた「主のうちに喜びなさい」とはこのことです。

『あしあと』という詩

このまえ、私は『あしあと』という詩のプリントをいただきました。これは有名な詩ですのでご存知の方が多いと思います。この詩はおおよそ次のようなものです。

人生を振り返った時、自分の歩いた道についている足あとを見た。
砂の上に二人の足あとが残されていた。
ひとつは私の足あと、もう一つは主の足あと。

私の人生でいちばんつらく、悲しい時、足あとはひとつしかなかった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。

主は、ささやかれた。
「私の大切な子よ。私は、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。足あとがひとつだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

この詩にハッとさせられます。私たちが苦難に逢い、試練を受けている時、私たちは孤独だと感じます。「世界中の誰も私が苦しんでいることを知らない。ただ私だけが苦しみの中にいる。」という苦しみと孤独感があります。しかしイエス様はそのような時に私たちを背負っていてくださっている。鞭打たれ、唾を吐きかけられ、罵られながら、私たちを背負っていてくださいます。このことに気づくならば、私たちはどのような時にも思い煩うことはありません。主にあって常に喜ぶことができます。

8節に「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」と勧められています。これは手紙の結びの言葉です。パウロは私たちに良心においてこのようなことを行いなさいと勧告します。私たちの良心、清い心はこれらのことをしたいと願います。これを阻害するのは思い煩いや、諦めや、無力感です。私が一人ならば自分の力のなさや小ささに良いことをする勇気などわきません。しかしイエス様が一緒にいてくださることを信じるならば、私の行いを用いてくださる神さまにお任せして、小さな力や勇気を出すことができるでしょう。その時には喜びが心を満たします。

思い煩いは神に、そして喜びの日々を

9節は最初にお話ししましたように、パウロが自分を見せている文章です。パウロは牢獄にいても思い煩うことなく、喜びにあふれて、人々にキリストの福音を宣べ伝えています。パウロは謂わばキリスト者のチームのリーダです。宣教の先頭を走り、困難に遭遇しても主にあることを誇りとして、その時に出来ることをし続けました。困難な時にはパウロを思い出したいと思います。キリストの苦難を思い出したいと思います。

神はどのような時にも私たちを養っておられます。私たちを用いてくださっています。そのために苦難を受けることがあろうとも、その苦難は私たちが一人で担っているのではありません。キリストが担っていてくださいます。このことをパウロは身をもって示しています。私たちもキリストに倣い、パウロの姿を見て、喜びの日々を送りたいと思います。