1月28日礼拝説教「主イエスの眼差し」西千葉教会真壁巌牧師

聖書 マルコによる福音書12章38〜44節

注解書によると「賽銭箱」とは、神殿の庭の壁を背にして置かれた13個のラッパ型の容器だという。施しのためのもので、今日風に言えば「災害救援募金箱」のようなものだったのだろう。そして、たまたまその「向かい側に座って」(41)いた主イエスには、群集がそれに金を入れる様子が見えた。「大勢の金持ちがたくさん入れて」いるところは、特別によく見えたであろう。

この場合の「金持ち」とは、一般的な意味で「豊かな人々」というよりは、38節の「律法学者」を指していると思われる。彼らは、主イエスが厳しく批判されたように、「長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」(38~40)ような人たちで、自己顕示欲が強い。

 

それに当時のユダヤでは、多額の献金をした人がいると「ラッパを吹き鳴らす」(マタイ6,2)こともあったというから、律法学者たちが「これ見よがし」に金を入れたとしても不思議ではない。

「ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨2枚、すなわち1クァドランスを入れた」(42)。この女性は、貧苦のために、ごく僅かのお金しか入れることができなかったのだろう。     「レプトン」とはローマ通貨の最小単位で、「デナリオン」の128分の1に当たる。「1デナリオン」が労働者の1日分の賃金に相当したというから、「レプトン銅貨2枚、すなわち1クァドランス」は現代の価値に換算すると、多くて何十円という程度の小額である。恐らく、彼女は人目を憚るようにしてそのお金を入れたのではなかったか。それがどうして主イエスの目にとまったのか?

ここで恩師のある牧師(村上伸)の体験を紹介したい。

1977年の11月に、当時ドイツ教会の世界宣教部で仕事をしていた恩師は、南アフリカ共和国に赴いた。人種差別(アパルトヘイト)が厳しかった頃だが、差別されている側の「モラビア兄弟団教会」の招きで2週間滞在し、各地を訪ねたのである。

ある日曜日、ティナナという小さな村の教会で、感謝祭礼拝の説教をすることになった。牧師が恩師を紹介して、「この人は私たちのところに来てくれた最初の日本人です」と言い、それから、He is black! と付け加えた。この紹介で恩師は緊張もほぐれ、心をこめて説教をしたのだが、その直後、歌と踊りが始まった。会堂の真ん中に木のテーブルを据え、その上に粗末なアルマイトの洗面器を置いて、会衆は周りをぐるぐる踊りながら献金を入れて行くのである。それも一度に全部入れるのではない。何度でも小出しにする。嬉しそうな身振りや手振り、それに歌声と手拍子。恩師も黙っていられなくなって踊りの輪に加わり、10ランド(日本円で2000円ぐらい)を入れた。その途端に会計係の人が駆け寄ってその紙幣をつまみ上げ、「日本から10ランドだよ!」と叫んだものだ。恩師は恥ずかしさのあまり赤面したそうです!

この踊りは、昼食も食べずに延々と午後2時過ぎまで続き、献金が全部で92ランド(約2万円)に達したところで終わったが、最後の手拍子が終わると牧師が何か言った。またもや歌と踊りが始まった。恩師は「一寸しつこいな」と思って見ていたが、実はこの最終ラウンドは「日本の教会のため」のものだったのである。小銭ばかり入ったずしりと重い紙袋を渡されたとき、恩師は感動して涙が出たと言っていた。

この人たちは大多数が白人の農場で働き、当時、月に僅か2ランド(約430円)とミルクを貰っていた。道路工事の労働者の日給は20セント(約43円)。こんなに少ない現金収入の中から、彼らは一年間、少しずつ献金を積み立てて、この「感謝祭」の礼拝に持って来るのである。

この人たちの姿が私には「レプトン銅貨二枚」を入れた貧しいやもめに重なって見える。すると、10ランドを入れた恩師は、あの金持ちの側にいるのでしょうか? だが、このやもめは、誰にも見えないように、こっそりと零細な金額を入れたはずである。それが、どうして主イエスには見えたのだろうか?

さて、あのやもめは誰にも見えないように、こっそりと零細な金額を入れたはずである。それがどうして主イエスには見えたのでしょう?(賽銭箱の賽はさいころの賽!何が出るか分からない)

実は、ここに今日の話の中心がある、と私は考える。実際のところ、彼女がいくら入れたか、主イエスには見えなかったであろう。しかし主は、彼女の切ない心情をしっかり汲み上げて、それを温かい眼差しで見守っておられたのだ!「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、  だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部いれたからである」(43~44)と言われたのは、そのことの証しに他ならない。そういう方が私たちのそばにいるということ。このことを、福音書は伝えようとしているのである。

主イエスは、社会であまり意味がないと見られている小さな存在や、無視されている弱者に対して、常に温かい目を注いだ方であった。野の百合、空の鳥。大人たちにうるさがられる子供たち。病気で寝ている人々。徴税人。貧苦のために律法に定められたこともできず、そのために「罪人」というレッテルを貼られた人々。そして、貧しいやもめ。

主イエスは、自分の業績を吹聴する人々の声高な弁舌には耳を貸さない。心の中で「言葉にもならない呻きでしかないような祈り」(ルター)を呟く人々の、声なき声に耳を傾けてくださる。主は、「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(ヘブライ4,15)方なのだから。

持っている物を差し出すことによって、神が自分の拠り所であることを、やもめは表明しました。

今、自分が握りしめているわずかなお金が自分を守っている力ではなく、神ご自身が私の全てを守

ってくださる方であり、その神の御手の中に自分自身を委ねたのです。それが誰よりもたくさん!

レプトン銅貨二枚を神に向かって手放す時に、大切なものが見えてくるのです。それは自分を支えているものがお金や地位や名誉ではなく、本来何も持っていない貧しい者に神が目を注がれている事実でしょう。その主イエスの眼差しを仰ぐ時、私たちの不安は除かれ、豊かにされるはずです。

祈り

「富める若人、弱きペトロ、疑い惑うトマス」に注がれる眼差しを、私たちにも!アーメン