2月18日礼拝説教「試練から守られる」

聖書 創世記9章8~17節、マルコによる福音書1章9~15節

私たちの人生には苦難がつきものです。もれなくどの人の人生にも苦難があります。なぜ苦難がくるのか、私たちが理由を探しても見つけることはできません。苦難は突然やってくることも特徴です。何の憂いもないような時に突然、苦難がやってきます。なぜ突然やってくるのか、これも私たちにはわかりません。苦難というのは言葉を変えれば試練です。

イエス様の試練と忍耐

イエス様は私たちに先だって試練に次ぐ試練をお受けになりました。お生まれになった時から試練をお受けになり、少年の頃も、宣教を始めてからも試練の連続でした。ヨハネからバプテスマを受けられた後に、荒れ野でサタンの誘惑を受けられた出来事は人として地上での生を生きられたイエス様にとって大きな試練でありました。

イエス様の40日の荒野での試練は突然やってきました(12節)。ヨハネからバプテスマをお受けになるとすぐに、霊はイエス様を無理やり荒野に送り出しました。12節に「霊はイエスを荒れ野に送り出した。」と書かれていますが、「無理やり荒れ野に送り出した」と訳した方が良いような言葉が使われています。本人の気持ちなどまったく考慮に入れないで荒れ野に向かわせたのです。

13節 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

マタイによる福音書によれば、その試練は40日間何も食べることができないものでした。そこには野獣もいました。快適な眠りは得られなかったことでしょう。そこでイエス様はサタンから誘惑をお受けになりました。しかしそこには天使たちがイエス様に仕えていました。

イエス様には天使たちよりもっと大きな保証がありました。それは「イエス様が洗礼を受けられた時に、天が裂けて霊がイエス様に降って来た」(10節)ということです。霊は鳩のようだったと書かれていますから、洗礼に立ち会った人たちにも見えたことでしょう。聖霊がイエス様と一緒にいてイエス様の霊を強めていました。

そしてさらに大きな保証は神さまがイエス様に「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(11節)という声をかけられたということです。イエス様はこの言葉に揺るがない安心を得ていました。

これらのことがイエス様をサタンの試練に耐えることができるようにしました。イエス様は神の子だから試練なんて簡単に乗り越えられたに違いないと考えるかもしれませんが、イエス様は「神の身分でありながら人間と同じ者になられました」(フィリ2:6,7)。だからイエス様は私たちが試練に遭っている時と全く同じ状況で試練に遭っておられました。もしイエス様が空腹も痛みも睡眠不足も覚えないお方であるなら、私たちがイエス様に頼ってもイエス様はその痛みを知らないのですから、「ああそうなのね。頑張ってね」と声をかけるだけになるでしょう。試練を受けて苦しまれたからこそ私たちの苦しみがお分かりになります。

神さまの忍耐

イエス様が忍耐されたように、神も忍耐されておられます。このことを創世記9章のノアに対して語られた神の契約に見てみたいと思います。

ノアとその家族は箱舟に乗って地を覆い尽くす大洪水の難を逃れました。そして神はノア家族とその後の子孫との間で(一方的に)契約を結ばれました。

9節 わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。

その契約とは、これから後は洪水が肉なるものをすべて滅ぼすことも地を滅ぼすこともない(11節)ということでした。

神はその契約のしるしを示しました。それは「雲の中に神の虹を置く(=与える)」(13節)というものです。雲が湧き起こり、その中に虹が現れると息あるものがすべて滅ぼされることはないということです。神は雲の中に虹を現れさせ、それを見て契約を思い起こされます。

この神の言葉に安心するかもしれません。しかし注意していただきたいのですが、神は「すべて滅ぼすことは決してない」(15節)と語っています。この契約は人間が神から離れて、あるいは神に背いて、自分たちの勝手に生きることをお許しになったという契約ではないことがわかります。

それならどういう契約なのでしょうか。雲の中に虹が現れた時には神はお怒りになっているということではないでしょうか。お怒りになっているが私たちの先祖であるノアと立てた永遠の契約を守って忍耐しておられるということではないかと思うのです。

私たちキリスト者は虹が出ると「よかった、神は私たちを滅ぼさないということを思い出してくださっている」と思うかもしれませんが、神の視点からすれば滅ぼしても良いようなことが起きているのだけれども忍耐しておられるのです。

神は忍耐することを私たちと永遠の契約としてくださいました。これは確かに私たちが感謝すべきことですけれども、神が忍耐してくださっていることに目を開かなければなりません。

私たちの苦難と忍耐

私たちにも苦難があります。人生は苦難の連続ということができるかもしれません。私たちが受ける苦難、あるいは試練の中にあって助けはあるでしょうか。私たちにもイエス様がサタンの誘惑にあったときに助けがあったように助けがあります。

第1に、イエス様が共にいてくださいます。それは天使たちがイエス様と共にあったよりも大きな力です。私たちがそれに気づけば私たちの霊は強められます。

第2に、私たちも(イエス様と同じく)洗礼を受けています。聖霊を受けています。

第3に、私たちも神の子となりました。これは私たちが神の被造物でありながら、聖霊を受けて神の養子になったということです。私たちは神の守りのうちにいるのです。

これを信じることは難しいことだとお考えになるかもしれません。洗礼を受けても「罪ある存在で常に悔い改めなければならない」と思う思いが強いからです。しかしそうであっても、私たちは洗礼によって「神の子」とされました。神の守りのうちにいるのです。たくさんの聖書の箇所がこのことを語っています(使徒17:29、ロマ8:14-23、Ⅰコリ1:4-9、ガラ3:26-29、ガラ4:1-7、エフェ1:4-7、フィリ2:13-16、Ⅰヨハ3:1-10)

だから私たちが試練に遭っている時、私たちは孤立無援の状態にあるのではありません。このことを信じるか信じないかで試練に立ち向かう姿勢がまったく変わってきます。信じるならば試練に立ち向かう勇気が湧いてきます。信じなければ一人で闘うしかなくなります。上手くいけば試練を克服できるでしょうが、上手くいかず試練が続けば負けてしまう事にもなりかねません。

だからイエス様がサタンの誘惑を受けて試練の中にいる時に助けがあったことを知り、私たちにも助けがあることを信じることはとても大切なことであります。私たちは孤立無援で試練に立ち向かわなければならないのではありません、洗礼を受けて聖霊が私たちに宿っていることを知り、聖霊の助けによって忍耐するならば試練に耐えることができ、そして試練は去っていきます。

先週の13日に千葉内房分区の教師会が開かれお互いの交わりを深めました。それぞれの教会が課題を抱えています。私たちの教会だけがいろいろな苦難を体験したのではないということを知って少し気が楽になったというか、この教会だけが特別なのではないということを知って心を強くしました。どの教会も試練に対峙しています。

イエス様が苦しまれたというのは私たちだけが苦しんでいるのではないということを知るという意味においてとても大切な出来事でありました。私たちが苦しみの中にあっても忍耐することができるのは、神が忍耐しておられ、イエス様も忍耐しておられることを知るからです。そして私たちが洗礼を受けて聖霊を与えられ、神の子とされているからです。

神は忍耐されています(虹の契約)。イエス様も忍耐され、誘惑に打ち勝ちました。人も試練において忍耐するのですが、しかし孤立無援ではありません。神はイエス様を遣わして下さり、イエス様は私たちと共にいてくださいます。神は私たちを神の子(養子)にしてくださいました。私たちに試練が与えられ私たちが忍耐するのは神の国を建て上げるためです。神はご自分に背き勝手なことをする人間を忍耐されています。イエス様はその人々を立ち帰らせるために神に執り成しておられます。ですから私たちもイエス様の苦難と忍耐を自分のこととして受け止め忍耐を持って試練に立ち向かうのです。私たちの未来は神の国に通じています。