3月5日牧師室より

時は春。木が芽吹き、草花も緑の葉を茂らせてきました。まるで太陽の光が木や草花に沁み通って命を育んでいるようです。

讃美歌に「神さまの愛はしみとおる。私たちの心に、日の光のように」という歌があります(讃美歌21-171)。しかし、もし心に遮へい膜を被せるならば神さまの愛は私たちの心に沁みとおってこないでしょう。そして心の中にあるものも神さまや他の人に沁み出すことはないでしょう。会社員は企業戦士と呼ばれ仕事は戦闘に譬えられることがあります。周りは全て何らかの意味で敵です。あるいは人の世話にはなりたくないと言い張っている人がいるかもしれません。企業戦士と呼ばれる人も一人で生きている自立した人も見事な人たちと言えるかもしれませんが、その人たちは愛を受け入れることができないのかもしれません。愛の奉仕をしたことがなく奉仕する喜びを知らないからかもしれません。人の世話にならないというのは立派なことのようでいて、実は孤独で辛いことなのです。大丈夫という人を助ける人はいません。そのように、神さまの愛を受け入れない人は自ら深刻な孤独の中にいるようなものです。

しかし、それでも神さまはこの世界と人を愛してくださっています。それは独り子イエス様をこの世にお遣わしになったことに端的に表れています。イエス様を排除した人たちにも神さまの愛は注がれ、イエス様の執り成しがありました。神さまは、私に立ち帰りなさいと言い続けておられます。