11月26日牧師室より

詩人ミルトンの散文『アリオパジティカ』に次のような一節があります。

真理が複数の姿を取ることがある。さもなければ、世の中のどっちでも構わないような大して重要でない多くのものの扱いに困る。真理はこちら側にあるかも、相手側にあるかもしれない。…パウロの教義は、断食する者もしない者も、特別な日を重視する者も、しない者も、主にとっては同じことで、どちらも正しいとしている。ただ愛(無償の愛)を持ってさえいるならば、私たちが拠り所とする要塞が互いを裁くという偽善の砦でないならば、それらのこと以外でもなんと多くの事柄が、平和のうちに許し合える寛容さに包まれることであろう。

こんな文です。これは自由についての優れた考察であると評されています。つまり自由とは他者の考え方や生き方を認め合う「無償の愛」の上に成立するということです。

個人のいさかいにしても、国家の紛争にしても、それぞれが自分自身の大事にしているものに忠実になろうとして、相手の考えを理解しようとしないことが原因と言えます。イエス様は祭壇に供え物をしているときに兄弟姉妹と仲違いしていることを思い出したら、まず行って兄弟姉妹と仲直りをしてから祭壇に供え物をしなさいと言われました(マタイ5:24)。

教会はキリストの体で、ここにはキリストが満ちています。ここでは神と私たち相互の間に無償の愛の交流があります。